後漢書卷十二 律暦志第二 律暦中(賈逵論暦・漢安論暦・永元論暦・熹平論暦・延光論暦・論月食)

太初暦の疎漏と四分暦への改暦議論

  • 太初元年(前104年)に三統暦を用いてから百余年、暦は次第に実際の天の運行より遅れ、朔(つきたち)が晦(月末)に食い違って現れるようになった。日の運行には遅れのみで進みがなく、月の運行には進みのみで遅れがなかった。
  • 建武八年(32年)、太僕朱浮・太中大夫許淑らが暦の誤りを指摘し改正を上書したが、光武帝は天下がまだ定まっていないとして着手しなかった。
  • 永平五年(62年)、官暦が七月十六日を月食としたのに対し、待詔楊岑は十五日と主張して的中させ、詔により楊岑に暦の改訂試験を命じた。しかし試験結果、待詔張盛・景防・鮑鄴らが四分法を用いて楊岑より多く的中させ、永平十二年(69年)十一月、四分の術による弦望(上弦・下弦・満月)の推算が部分的に採用された。
  • 元和二年(85年)、太初暦の誤差がさらに拡大し、冬至の日の位置が実際の天文観測とずれていることが明らかになったため、章帝は治暦の編訢・李梵らに校訂を命じ、詔を下して正式に四分暦へ改暦した。詔には「先天而天不違、後天而奉天時」(天に先立っても天に逆らわず、天に後れても天の時を奉ずる)との理念が示され、河図・尚書璇璣鈐・春秋保乾図などの讖緯思想も改暦の根拠として引かれた。
  • 改暦後も編訢・李梵らと賈逵らの間で暦元(暦の起算点)や閏の置き方をめぐる論争が続いた。章帝は賈逵に衛承・李崇・梁鮪・厳勖・徐震・蘇統ら十名の暦学者と共に検討させ、永元年間(89〜105年)には九道法(月の運行軌道を考慮した術)による弦望の推算が改めて検証され、建武以来の月食三十八件を基準に精度が確かめられた。

賈逵論暦

  • 賈逵は「太初暦は冬至の日が牽牛(牛宿)の初めにあるとするが、黄帝・夏・殷・周・魯の各暦は冬至を建星(今の斗宿)に置いており、太初暦の数値は実際の観測より約五度先行している」と論じた。石氏星経・尚書考霊曜などとも照合し、元和二年(85年)から永元元年(89年)にかけての五年間の実測により、冬至は斗宿二十一度四分の一付近にあることが確認され、太初暦の牽牛説は退けられた。
  • 賈逵はさらに、太初暦で漢初から太初元年までの朔日の的中率と、新暦(四分暦)による的中率を比較し、新暦の方が精度が高いことを示した。また春秋経に記された日食の記録との照合でも、新暦の的中率の方が優れているとした。
  • 賈逵は、暦法は約三百年ごとに改定を要するという春秋保乾図の説(「三百年斗暦改憲」)を引き、太初暦が漢興から百二年を経てようやく改暦されたことの遅れを指摘した。
  • また賈逵は、黄道(太陽の通り道)と赤道の度数の差異について、史官が赤道基準で日月の宿度を測っていたために誤差(「日却」=日が後退して見える現象)が生じていたことを明らかにし、黄道基準での観測の必要性を説いた。永元十五年(103年)七月、詔により太史に黄道銅儀が作られ、二十八宿それぞれの黄道度数(角十三度、亢十度、氐十六度…など、周天三百六十五度四分の一)が定められた。

永元・延光年間の議論――九道法と甲寅元・庚申元の争い

  • 史官はしばしば合朔・弦望・月食の推算を外し、その原因は月の運行の遅速(遅疾)を考慮していないことにあった。永平年間、太史待詔張隆が四分法で弦望・月食の加時を推算したが、しばしば外れ、誤差は十数度に及んだ。
  • 李梵らは、月の遅疾は牽牛・東井・婁・角などの特定の宿に限らず、月の軌道(九道)の遠近出入によって生じるとし、一月ごとに遅疾の最大点が移動し、九年で一周(九道一復)、九章百七十一年で十一月の合朔・冬至が一致する周期を見出した。これにより建武以来の月食三十八件を検証し精度向上が確認された。
  • 熹平年間(172〜178年)、旧治暦郎の梁国の宗整が九道術を上言し、太子舎人馮恂も別の九道術を作って比較したところ馮恂の術がより精密とされたが、なお十数度の誤差が残った。
  • 安帝延光二年(123年)、中謁者亶誦は甲寅元(讖緯に基づく暦元)への改暦を主張し、河南の梁豊は太初暦への復帰を主張した。尚書郎張衡・周興はいずれの主張にも詳しく反証を加え、九道法が最も精密であるとした。公卿の議論は太尉愷ら八十四人が太初暦支持、博士黄広・大行令任僉ら四十人が九道(四分暦の枠組み)支持、少数が甲寅元支持と分かれたが、最終的に尚書令忠の上奏により、章帝の元和改暦(四分暦・庚申元)の正統性が確認され、旧に復すことなく維持された。

順帝漢安二年 辺韶の上言(漢安論暦)

  • 順帝漢安二年(143年)、尚書侍郎辺韶は、武帝が元封七年(前104年)に太初暦を定めた経緯、劉歆が春秋の記録と易・河図・雒書の説を参照して九道法を広めた経緯を振り返り、章帝の四分暦改暦(元和二年、85年)が「三百年ごとに斗暦を改める」との讖緯の教えに適うものであることを述べた。
  • 当時、永和二年(137年)頃には四分暦にも誤差の蓄積が見られ、月の朔が先行して現れる現象が指摘されていたが、太史令虞恭・治暦宗訢らは、四分暦の暦元(孝文帝後元三年=庚辰年を基準とする仲紀の元)が図讖の記述と正確に符合することを詳細に論証し、改暦の必要はないと結論した。詔はこれを可とした。

霊帝熹平四年 馮光・陳晃論争と蔡邕の議(熹平論暦)

  • 霊帝熹平四年(175年)、五官郎中馮光・沛の相の上計掾陳晃は「暦元が正しくないために妖民の反乱や盗賊が相次いでいる」とし、甲寅元への改暦を主張、現行の庚申元は秦の暦法に由来し図讖の裏付けがないと批判した。太史治暦郎の郭香・劉固らはこれに反論し、朝廷は儒林の学者を集めて議論させた。
  • 議郎蔡邕は「暦法は精微で古聖の時代から遠く、得失は代々入れ替わる」としたうえで、顓頊暦(乙卯元)・太初暦(丁丑元)・四分暦(庚申元)それぞれが図讖に必ずしも明記されなくとも、その時代において実測との一致で効果を示してきた事実を指摘した。太史令張寿王がかつて甲寅元を主張したが実測で劣り退けられた例、延光元年に中謁者亶誦が同様の主張をしたが施行に至らなかった例を挙げ、馮光・陳晃の説も暦元の年数計算に矛盾があり(開闢から獲麟までの年数が乾鑿度・元命苞の説と食い違う等)、実測による裏付けを欠くとして退けた。
  • 蔡邕は最後に、元和二年の改暦詔が河図・雒書の讖緯を深く踏まえた公式な改暦であり、馮光・陳晃の私見によって覆されるべきものではないと結論した。太尉聞人襲・司徒・司空は蔡邕の議に基づき馮光・陳晃を不敬罪で弾劾したが、詔により処罰は見送られた。

月食予測をめぐる論争(論月食)

  • 太初暦は月食の予測をしばしば外し、四分暦は河平年間(前28〜25年)以来の癸巳元による術で施行されたが、永元元年(89年)以降も閏月の扱いなどで誤差が出た。永元十二年(100年)正月、公乗の宗紺が月食の日を的中させ、太史令の推挙により紺の法が五十六年にわたり採用されたが、本初元年(146年)頃から再び誤差が拡大し、熹平三年(174年)までの二十九年間に十六件の誤りが生じた。
  • 常山長史劉洪が七曜術を作り、太史部郎中劉固・舎人馮恂らと精度を競わせたところ、劉固の術は七曜術と一致し、馮恂の術は独自に月食を的中させる例もあり優劣が定まらなかった。光和二年(179年)、紺の孫の王誠が改良した術を上言し施行されたが、恂・誠両術の優劣をめぐる論争がなお続いた。
  • 太常府での再検証(侍中韓説・博士蔡耽・穀城門候劉洪・右郎中陳調らによる)の結果、双方の術に一長一短があり結論が出ず、最終的に「実測による検証を重ね、外れた場合に改める」という原則(允執其中)のもとで王誠の術を当面採用し、以後の実測結果によって適否を判断することとされた。
  • 光和二年(179年)、万年の公乗王漢が別の月食記録(己巳元による)を上言したが、太史令の検証により官暦との整合性に欠けるとされ、穀城門候劉洪が召されて王漢の説を検討したものの、王漢は師伝の書を根拠とするのみで論証を尽くせず、結局その説は退けられ、王漢は郷里に帰された。
  • 劉洪はその後、蔡邕とともに律暦記を編み、乾象術を作って十数年にわたり日月の運行を検証し、その術は後世に伝えられたと付記される。