後漢演義第九十七回 勇猛な姜維は北伐して軍を失い、老いた丁奉は東興で敵を討つ (猛姜維北伐喪師 老丁奉東興殺敵)

曹爽誅殺後の遺族

  • 曹爽の従弟曹文叔の妻夏侯令女は若くして夫を亡くし子もなかったが、実家に再嫁を勧められても耳を切って拒絶。曹爽誅殺後、実父夏侯文寧が曹氏との絶縁を上書し女に再嫁を勧めさせたが、令女は自ら鼻を削いで貞節を示し、「仁人は盛衰で節を変えず、義士は存亡で心を変えない」と拒み通した。司馬懿もこれに感じ入り、養子を得て曹氏の後を継がせることを許した。
  • 何晏の妻金鄉公主(曹操の娘)は聡明で、夫の放蕩を見抜き母杜夫人に警告していたが、聞き入れられぬまま何晏は誅殺された。幼い遺児は杜夫人が匿い、司馬懿に助命を願い出て赦された。何晏は清談を好み夏侯玄・荀粲・王弼らと交わり、後の魏晋清談の風潮の源流となった。

司馬懿の丞相辞退と姜維の北伐開始

  • 司馬懿の功績を称え丞相・九錫を勧める議が起きたが本人は固辞。この年、蜀は嘉平(延熙十二年)に改元し、姜維が衛将軍となり費禕とともに尚書事を録す。姜維は北伐を志すが、費禕は慎重論を唱え兵権を一万人に制限した。
  • 魏の夏侯覇(夏侯淵の子)が蜀に投降。曹爽の外弟で、曹爽誅殺後の粛清を恐れ艱難の末に亡命したもので、姜維は疑いを解いて厚遇し参軍に任じた。夏侯覇は「司馬懿は目下家門経営に忙しいが、鍾会が将来蜀の脅威になる」と語る。
  • 姜維は先手を打って出兵し、雍州の曲山に二城を築いたが、魏の陳泰・郭淮に包囲され水路を断たれる。援軍に向かった姜維も牛頭山で陳泰に阻まれ、郭淮の来援も知って撤退。曲山の守将は魏に降伏し、姜維の初陣は二将を失う敗北に終わった。姜維は呉との共同作戦を図り使者を送った。

呉の後継争い(二宮の変)

  • 呉主孫権は晩年、寵妃をめぐる内紛で朝政が乱れる。太子登の死後、和が太子となり、弟の魯王霸が太子と同等の待遇を受けたことから両派に分かれて争う。
  • 全公主(魯班)は太子和の母王夫人と不仲で讒言を重ね、孫権もこれを信じて王夫人を責め、和は寵を失う。霸は楊竺らと結んで兄を陥れようとし、丞相陸遜は太子と魯王の待遇に差をつけるよう諫めたが聞き入れられず、憤懣のうちに没した。太子太傅吾粲も讒言により獄死。
  • 寵妃潘氏は全公主と結んで幼子孫亮の擁立を画策。孫権は侍中孫峻に廃立の意を漏らし、峻は姻戚関係から亮擁立に賛成した。

太子廃立と孫亮の即位

  • 赤烏十二年、全公主は寡婦となり孫峻と密通、共謀して太子和の排除と孫亮擁立を進めた。孫権は太子和を幽閉し、朱据・屈晃らの諫言も退けて廃太子とし故鄣に流した。魯王霸も賜死、その党類も誅殺され、幼い孫亮が太子となり母潘氏は皇后に立てられた。
  • 潘皇后は驕慢になり、孫権も太子和の無実を悟り始める。天災や病が重なる中、孫権は和を南陽王、休を瑯琊王、奮を斉王として各地に配した。
  • 潘皇后は孫権重病時、漢の呂后の故事を調べさせたため、報復を恐れた宮女たちに絞殺された。孫権はその死を悲しみつつも咎により宮女数名を処刑。まもなく孫権は71歳で崩御し、諸葛恪・滕胤・孫弘・孫峻・呂拠が輔政として太子孫亮を擁立。孫弘は諸葛恪暗殺を謀るが露見し逆に殺された。

諸葛恪の台頭と東興の戦い

  • 諸葛恪(諸葛瑾の長子)は幼少より才気煥発で知られ、孫権の信任を得て累進し、丞相格の太傅として輔政の首座に立つ。減税など善政で人望を集め、巣湖東岸の東興堤を修築し二城を築いて防備を固めた。瑯琊王休・斉王奮を辺境から内地に移封した。
  • 魏では司馬懿死後、子の司馬師が実権を握り、諸葛誕の進言を容れ胡遵・毋丘儉らに東興を攻めさせた。呉の老将丁奉は少数精鋭で先行し、厳寒に油断した魏軍を奇襲、韓綜・桓嘉を討ち取り大勝。魏軍は浮橋の混乱で数万人が溺死する惨敗を喫した。諸葛恪は凱旋し陽都侯に加封、荊揚二州の都督となった。

諸葛恪の新城攻めと失脚の予兆

  • 翌年、諸葛恪は蜀と結んで再び出兵。姜維も石営から狄道を攻めるが糧食不足で撤退。諸葛恪は新城を包囲するが、守将張特の偽りの降伏交渉に乗じられ守備を固められてしまい、猛攻も及ばず、疫病と将兵の疲弊により大敗して撤退。
  • 敗戦の責を将兵に転嫁したため人心を失い、諸葛恪自身も不吉な予兆(白服の怪人、白虹、家屋の梁の折損、水や衣の血腥さ、飼い犬の異常な行動)に見舞われ精神的に追い詰められる。孫峻に招かれた宴席へ向かう際も不安を拭えなかった。

小子有詩曰く「列席未終頭已落、覆巢以下卵無完」(宴もまだ終わらぬうちに首が落ち、巣が覆れば卵も無事では済まない)――諸葛恪の運命を暗示して次回に続く。

評語

  • 姜維の北伐の志は諸葛亮の遺志を継ぐもので責められるべきではないが、才が志に及ばなかった。費禕の慎重論も的確だったが、蜀の命運は既に傾いており、北伐しても滅び、しなくても滅びる情勢だった。牛頭山での失敗は先行きの厳しさを物語る。
  • 孫権は晩年、寵愛に溺れて長子を廃し幼子を立てるという乱の根を作った。諸葛恪・孫峻のような者に後事を託したのは誤りだった。諸葛恪は東興での勝利で驕り、新城での失敗を認めず、威を振るい続けた末に身を滅ぼした。「小時了了、大未必佳」の言葉どおりであり、孫峻に至っては論じるにも値しない。