後漢演義第74回 孟徳は機に乗じ兵を率い帝を迎え、奉先は難を排し戟を射て包囲を解く (孟德乘機引兵迎駕 奉先排難射戟解圍)

洛陽帰還と曹操の迎駕

  • 献帝一行は安邑で越年し建安と改元。楊奉と董承が対立し、董承は張楊を頼る。張楊が洛陽への還都を主導し、荊州刺史劉表も物資支援した。
  • 建安元年七月、献帝は洛陽に帰還。宮殿は荒廃し(楊安殿のみ完成)、百官は食料にも事欠く有様だった。
  • 曹操は荀彧の勧め(「晋文公が周襄王を迎え覇業を成した故事」を引く)で迎駕を決意。董昭の偽書により楊奉を懐柔し、曹洪を先遣した後、曹操自身が洛陽に入り朝見。
  • 曹操は司隷校尉・録尚書事となり実権を掌握。韓暹の罪を弾劾(韓暹は逃亡)、功臣を賞罰(馮碩ら3名処刑、董承・伏完ら13名を列侯に)。伏完は伏皇后の父であることが紹介される。
  • 董昭の献策により、曹操は献帝を許へ遷都させることを決意。楊奉には賄賂で懐柔しつつ「食糧不足のため」と称して東遷を実行、警戒した楊奉・韓暹の妨害を陽城で撃退した。
  • 許で宮殿・宗廟を整備し、曹操は大将軍・武平侯となる。袁紹は不満を示すが曹操は大将軍職を譲り事態を収拾。楊奉はさらに攻められ、韓暹とともに袁術の下へ落ち延びた。

曹操政権の陣容

  • 荀彧を侍書令、荀彧の子荀攸を軍師、郭嘉を司空祭酒に。曹洪・曹仁・夏侯惇・夏侯淵・典韋・李典・楽進・于禁・徐晃らが将として仕える。
  • 孔融も将作大匠として召され、鄭玄は固辞し在野で経書注釈に専念。棗祗・任峻による屯田制の創始が、後の曹操の兵站を支える基盤となったことが述べられる。

徐州をめぐる攻防と轅門射戟

  • 劉備は徐州を治めていたが、袁術が徐州奪取を狙い侵攻。劉備は張飛に下邳を守らせ自ら出陣するが、袁術の要請を受けた呂布が、張飛の失政(曹豹への鞭打ち)に乗じて下邳を奪取。劉備の家族も囚われた。
  • 糜竺が私財を投げ打って劉備を支え(糜竺の来歴として、旅先で天女に助けられ火難を免れた逸話が語られる)、糜竺の妹を劉備に嫁がせた。
  • 呂布は劉備の家族には手を出さず、劉備と和解し小沛に戻す。
  • 袁術は呂布と婚姻を約束しつつ紀霊に小沛を攻めさせるが、呂布は劉備を見捨てず調停に乗り出す。有名な「轅門射戟」の場面――呂布が門に立てた戟を弓で射抜き、命中すれば両者が兵を退くよう提案し、見事命中させて双方に停戦を約させた。

評語

  • 迎駕を許に行ったことは漢魏興亡の分岐点であった。楊奉・韓暹は天子を擁するだけで治める術を知らなかった。袁紹は覇業の資質を欠き、袁術は簒奪を企み、劉備は勢力不足であった中、曹操だけが際立っていた。当時の曹操は覇者たらんとしただけで簒漢の意図はまだ持っていなかったとも言える。
  • 呂布は始め劉備に頼り、後に裏切り、また和解するなど一貫性を欠く小人だが、劉備の家族を保護し射戟で仲裁したことは豪侠と呼べる一面もあった。