後漢演義第73回 帝の御幸が難に遭い道中で賊に遭い、危城が守りを失い志を貫いて命を捨てる (御蹕蒙塵沿途遇寇 危城失守抗志捐軀)
献帝の東遷と苦難の道行き
- 献帝一行は橋を封鎖する兵に阻まれるが天子と確認され通過。霸陵で野宿し、張済らが乾糧を提供。李傕は同行せず、郭汜が追随。張済・郭汜・楊定らが将軍に任じられる。
- 郭汜は献帝を高陵へ誘導しようとするが拒否され、新豊で帝を郿へ連れ戻そうと画策。楊定・董承・楊奉らが阻止し、夏育らの縦火による奪還未遂も撃退。
- 華陰では段煨が供応するが、楊定は段煨と不和で誣告し攻撃、後に和解。
- 李傕・郭汜が再び合流して追撃。楊定は帝を見捨てて逃走し、郭汜に追われ荊州へ落ち延びる。張済も裏切りを図るが楊奉・董承が夜間に車駕を移し弘農へ脱出。追いついた李・郭・張の連合軍に大敗し、多くの従者が東澗で溺死。射声校尉沮俊は捕らえられ李傕に罵倒し斬られた。
- 弘農も略奪され、献帝一行は曹陽で野宿。楊奉・董承は河東の白波賊出身の李楽・韓暹・胡才、南匈奴の去卑らを招き援軍とし、追撃してきた李傕らを撃退するが、翌日再び攻められ多数の死傷者を出した(鄧淵・宣璠・田芬・張義ら戦死)。
- 黄河を渡る際、伏皇后の兄伏徳が絹を運ぶのを見た董承が争いで一人を撃ち殺すなど混乱が続いた。渡河は絹を使って帝の身を包み降ろすなど困難を極め、渡れなかった者は李傕軍に殺されたり掠奪された。士孫瑞も殺された。
- 大陽から安邑へ移り、河内太守張楊・河東太守王邑の支援を受ける。住まいは荊の垣根で門もない有様だった。最終的に李傕らと講和し、掠奪品や輿の器物を返還させた。
袁紹、迎駕の好機を逃す
- 沮授は袁紹に「天子を鄴に迎え、諸侯に号令すべき」と進言するが、郭図・淳于瓊らの反対で袁紹は決断できず、東郡太守臧洪の離反鎮圧を優先した。
- 臧洪は張超(かつての盟友)を見捨てられず袁紹に叛いた。袁紹は陳琳に説得の書を書かせるが、臧洪は堂々たる返書で拒絶(旧恩と忠義を説く長文)。
- 袁紹は東郡を包囲。臧洪は糧食が尽きても降伏せず、愛妾を殺して兵に食べさせるまでして籠城を続けたが、ついに落城し捕らえられた。臧洪は袁紹を面罵し斬られ、彼を弁護した陳容も殉じた。将たちは「なぜ一日に二人の烈士を殺すのか」と嘆いた。
- 袁紹は続いて幽州の公孫瓚を攻めるべく、劉虞の旧臣鮮于輔・胡人閻柔らと結び、劉虞の子劉和を担いで大軍を送るが、公孫瓚は鮑邱で緒戦に勝利。しかし公孫瓚は易県に籠り高楼式の城砦を築いて厭戦・引きこもり状態となり、天下平定への意欲を失っていった。
評語
- 李傕・郭汜・張済・楊奉・董承、さらに李楽・韓暹・胡才もみな賊にすぎない。天子が賊の手に翻弄されながらも命脈を保てたのは、彼らがまだ公然と簒奪する度胸がなかったからに過ぎない。
- 当時、勤王の大業を成し得たのは袁紹であった。沮授の策に従い天子を迎えていれば覇業を成せたはずだが、機を逸した。臧洪の行動は小義に近いが、忠義を貫いた点で後世に烈士と称されるにふさわしい。