後漢演義第六十二回 義兵を起こし三雄がともに賊を討ち、長史を拝し群寇が賢者を敬う (起義兵三雄同殺賊 拜長史群寇識尊賢)

傅燮の上奏

護軍司馬傅燮は、国家の禍は外敵ではなく内なる宦官にあると上奏し、讒佞を退けて忠臣を用いるよう霊帝に訴えた。この上奏で霊帝の怒りは免れたが、功に見合わぬ安定都尉への任官にとどまった。豫州刺史王允は黄巾軍の中から宦官張譲の私書を得て奏上したが、張譲の弁明を信じた霊帝により王允が投獄される始末だった。

劉備・関羽・張飛の義兄弟

朱儁の凱旋を機に大赦が行われ、王允や盧植も釈放された。盧植の門弟で中山靖王劉勝の末裔である劉備(字玄徳)が、鄒靖の推挙で安喜県尉となる。劉備は貧しい織席売りの家に育ったが人望があり、関羽(字雲長)・張飛(字翼徳)と義兄弟の契りを結んだ。中山の商人張世平・蘇雙から軍資の援助を受け、義勇軍を組織して黄巾討伐で戦功を挙げた。

督郵鞭打ちの一件

軍功による県尉整理の詔が下り、劉備のもとを訪れた督郵は面会を拒み高慢な態度をとった。怒った張飛が督郵を捕らえ縄で縛って鞭打ち、劉備が押しとどめる中で印綬を返上し三人はその地を去った。

南宮火災と売官の横行

中平二年、南宮雲台が火災に遭い多くの殿舎が焼失した。宮室再建のため霊帝は田賦の増徴を強行し、諫言した楽安太守陸康は投獄されかけた。内侍による資材の水増し請求や賄賂の横行で工事は進まず、州郡は民から搾取して補填した。清廉な鉅鹿太守司馬直は赴任のための献金を拒み自殺、霊帝もこれに動かされ一時修宮銭を停止したが、官吏の売官は続いた(崔烈の司徒就任も宦官経由の献金によるもの)。

各地に広がる盗賊

黒山賊の褚燕をはじめ各地に群盗が横行し、朝廷は討伐できず官爵を餌に懐柔するのみだった。隴西では羌胡と結んだ辺章・韓遂が反乱を起こし金城太守らを殺害。隴右刺史左昌は無為無策で、長史蓋勲は諫言したが容れられなかった。蓋勲は辺章と対峙して屈せず、後任刺史宋梟の迂遠な教化策にも反対した。羌族に包囲された際は死を覚悟したが、羌の酋長滇吾に助けられ厚遇を受けて帰還、朝廷から討虜校尉に任じられた。

評語

劉備は貧民の身から大志を抱き英雄と交わって国のために賊を討った点で、朝吏として出征した曹操とは忠義の質が異なる。関羽・張飛の剛暴な気性とも意気投合したのは劉備の人望による。督郵を鞭打った一件は痛快であり、天下の貪官汚吏すべてに報いを与えたい思いにさせる。蓋勲は一介の長史でありながら人望を集め、辺章は彼を避け、異民族の滇吾さえ彼を敬った。盗賊や夷狄でさえ賢者を慕うのに、人がみずから悪名を残すのは愚かなことである。