後漢演義第六十一回 曹操は軍を集め賊党を平げ、朱儁は計略を用い堅城を落とす (曹操會師平賊黨 朱儁用計下堅城)
曹操の出自と若き日の奸智
曹操は沛国譙郡の人。宦官曹騰の養子となった曹嵩の子で、本姓は夏侯氏。若い頃から機知に富み放蕩を好んだ。叔父に素行を咎められたことを恨み、叔父の前でわざと中風のふりをして父に嘘だと信じ込ませ、以後は叱られずに済むようになった。橋玄・何顒は曹操を「天下を安んじる器」と評し、橋玄の勧めで人物鑑定家の許劭を訪ねると、許劭は「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した。曹操はこれをむしろ喜んだ。
洛陽北部尉としての威名
20歳で孝廉に挙げられ、洛陽北部尉に任じられると五色棒を掲げて禁令を布告し、違反者は身分を問わず棒打ちにした。霊帝寵愛の宦官蹇碩の叔父が禁を犯した際も容赦なく棒殺したため、権門は震え上がり曹操の名は広まった。その後頓丘令、議郎を歴任。
黄巾討伐で皇甫嵩・朱儁と合流
黄巾の乱が起こると騎都尉として出征し、潁川で敗走中の波才軍を皇甫嵩とともに撃破。さらに朱儁も合流し三軍で汝南・陳国の賊を撃滅、波才も討たれた。皇甫嵩は戦功を朱儁・曹操に譲る上奏をし、朱儁は西郷侯・鎮賊中郎将、曹操は済南相に任じられた。
盧植の更迭と董卓の登場
北中郎将盧植は張角を広宗に追い詰めていたが、視察に来た宦官左豊への応対が冷淡だったため讒言され、檻車で召還されてしまう。代わって河東太守董卓が東中郎将に任じられたが、軍心は盧植更迭に不服で、張角の反撃を受けて敗退し輜重を奪われた。董卓は罷免され、皇甫嵩が改めて張角討伐を命じられる。
皇甫嵩、張角・張梁を討つ
皇甫嵩は東郡で卜己を討った後、広宗の張角軍と対峙。折しも張角が病死し、皇甫嵩は夜襲で弟の張梁軍を撃破、張梁は討死し賊兵の多くは河に追い落とされて溺死した。城内で張角の棺を暴いて屍を戮し首を京師に送った。さらに下曲陽の張宝も討たれ、三張はことごとく滅び、賊衆は十余万が降伏した。
論功行賞と閻忠の勧誘
皇甫嵩は左車騎将軍・冀州牧・槐里侯に封じられ、冀州の田租減免を願い出て民に慕われた。百姓は嵩を讃える歌をうたった。信都令だった閻忠は皇甫嵩に対し、朝廷の実権を握って自立するよう説くが、嵩は「人はまだ漢室を見捨てておらず、天も逆臣を助けない」として拒絶した。
朱儁、南陽の賊を平定
南陽では張曼成・趙弘・韓忠・孫夏と賊目が次々に立った。朱儁は趙弘を討ち、韓忠籠城の際は包囲を一時解いて誘い出し、追撃して壊滅させる計略を用いた。降伏した韓忠は南陽太守秦頡に私怨から独断で斬られてしまう。残賊の孫夏も精山で討たれ、南陽は平定された。朱儁は右車騎将軍に昇進した。
傅燮の功が黙殺される
護軍司馬傅燮は各地を転戦して功を重ねたが、中常侍趙忠の讒言により功績を握りつぶされ、恩賞を受けられなかった。
評語
黄巾討伐の第一の功は皇甫嵩、次いで朱儁であり、曹操は人に付き従っただけの微功に過ぎないが、後年天子を擁して諸侯に号令する奸雄となるため、あえてその名を回目に掲げたにすぎない。朱儁は智略で皇甫嵩に及ばず、潁川・汝南陳国の平定はいずれも嵩の力に負うところが大きい。南陽での勝利も趙弘・韓忠らの無謀に助けられた面がある。なお羅貫中『三国演義』が張角に妖術を用いさせ劉備・関羽・張飛を絡めて描くのは臆造であり、本回ではそれらを採らず史実に即した。