後漢演義第三十六回 魯叔陵は経を講じ帝旨に称えられ、曹大家は上表し兄の帰還を乞う (魯叔陵講經稱帝旨 曹大家上表乞兄歸)

陰皇后の廃位

  • 陰皇后が鄧貴人を妬み、外祖母の鄧朱らと巫蠱(呪詛)を行ったとの告発が永元十四年に起こる。
  • 和帝は張慎・陳褒らに命じて鄧朱・鄧奉・鄧毅・陰軼・陰輔・陰敞を捕らえ厳しく取り調べさせ、大逆不道の罪状を確定させた。
  • 和帝はもはや旧情を顧みず、司徒魯恭に節を持たせて陰皇后を廃し、桐宮に移させた。
  • 陰皇后は父・弟・外祖母・母方の叔父らを次々に亡くし、一族も日南に流された。孤独と悲嘆のうちに衰弱し、まもなく亡くなり、簡素に葬られた。
  • 鄧貴人は陰后の廃位に上書して諫めたが、体裁だけのものと見なされ和帝には聞き入れられなかった。

鄧貴人の立后

  • 群臣が立后を求めると、和帝は徳の高さから鄧貴人を推したが、鄧貴人は再三辞退した。
  • 一月余りの後、和帝は改めて鄧貴人を皇后に立てることを決め、慰留の詔を重ねてようやく受け入れさせた。

和帝親政後の人事

  • 陳寵(陳咸の曾孫)は法を寛大に運用する家風を継ぎ、廷尉から大司農を経て、郭躬の後を襲って廷尉となり、経義に基づく寛平な裁きで評判を得た。
  • 張奮の後任として太僕の韓稜が司空となり、剛直さで人望を集めた。
  • 太尉張酺の推挙により、張禹が太尉、徐防が大司農となった。張禹は光武帝の縁戚筋にあたり、揚州刺史時代に伍子胥の霊を恐れず渡江した逸話を持つ実直な人物。
  • 徐防は経学の家に生まれ、司隷校尉・魏郡太守を経て司空に進んだ。

魯丕の経学論争

  • 司徒魯恭の弟・魯丕(叔陵)は五経に通じ、章帝期の対策で高評価を得て以来、県令・刺史・相を歴任し、多くの門人を集めた。
  • 侍中賈逵の推薦で再び中散大夫となり、永元十三年、和帝が東観に行幸した際、賈逵・尚書令黄香らと経義を講じた。
  • 賈逵(賈誼の九世孫)と黄香(幼くして孝で知られた博学の士)は当代随一の学者とされたが、魯丕は独自の見識で議論を展開し、両者を言い詰まらせた。和帝はこれを称賛し衣冠を賜った。

魯丕の上疏と求賢の詔

  • 魯丕は上疏し、経説の議論は私見を交えず先師の説を正しく伝えるべきこと、賢才の言路を開くべきことを説いた。
  • これを受けて和帝は求賢の詔を下し、辺境の郡にも人口に応じた孝廉の推挙を命じた。

涼州の羌乱と迷唐の反覆

  • 叛羌の迷唐は塞外に逃れており、追撃しなかったとして劉尚・趙世は罷免された。
  • 後任の王信・耿譚は懸賞で羌人を招き寄せ、迷唐もついに投降を申し出て入朝したが、和帝が榆谷への帰還を命じると再び離反した。
  • 護羌校尉呉祉は迷唐に欺かれて物資を与えたが、迷唐は湟中の諸胡を略奪して逃げ、王信・耿譚・呉祉は連座して罷免された。
  • 後任の周鮪・侯霸が迷唐を攻め、侯霸の奮戦で羌軍は大敗、六千余口が投降した。周鮪は逗留の罪で処罰され、侯霸が護羌校尉となった。
  • その後、安定の焼当種の反乱も鎮圧され、四海・大小榆谷から羌寇は一掃された。

曹鳳の西海郡再建議

  • 隃麋相の曹鳳は、燒当種が衰えた今こそ西海郡を再興し屯田を広げて羌胡の交通を断つべきと上書し、和帝はこれを容れて西河郡を置き、金城西部都尉に任じた。
  • 屯田は順調に拡大したが、後の安帝永初元年に羌の反乱が再発し中断した。迷唐は孤立して病死した。

班超の帰国嘆願

  • 西域を長年鎮めてきた班超は、掾史の甘英を大秦(ローマ)に派遣したが、安息(パルティア)に阻まれて条支までで引き返した経緯があった。
  • 班超自身は齢七十に近づき、老病を理由に帰国を願う上疏を子の班勇に託して奉じたが、和帝は西域の要として代わりが無いためしばらく保留した。
  • 妹の班昭(曹大家、後宮の女官)が兄に代わって上表し、班超の長年の労苦と老いを訴え、帰国を懇願した。
  • 和帝はこれに感動し、班超を召還して任尚を都護として交代させた。

班超の帰還と死

  • 班超は任尚に西域統治の心得として、厳格に過ぎぬよう寛容な統治を勧めたが、任尚は内心これを軽んじた。
  • 洛陽に戻った班超は射声校尉に任じられたが、持病が悪化してまもなく七十一歳で没した。長子の班雄が爵位を継いだ。
  • 宦官鄭眾が侯に封じられた一方、班超には諡号すら与えられなかった。

評語

  • 経学は聖賢の教えの根本であり、秦の焚書以来失われかけた経義は漢儒によってようやく伝えられた。魯丕が賈逵・黄香の二大家を論駁したことは経術の力を示すものとして詳しく記した。
  • 班超は西域平定の大功を持ちながら、老いてようやく帰国を許され、まもなく没した。妹班昭の学識と上表がなければその帰国も叶わなかったであろう。
  • 蘇武も班超も帰国後の待遇は薄く、諡号すら惜しまれた。漢が功臣を薄遇してきたことを嘆かずにはいられない。