後漢演義第三十五回 異民族の母を送り恩を売るも裏切られ、鄧氏の娘を得て寵を分け陰謀を開く (送番母市恩遭反噬 得鄧女分寵啟陰謀)

於除鞬の離反と誅殺

竇憲の失脚により後ろ盾を失った北単於於除鞬は、朝命を待たず勝手に北庭へ去ろうとした。漢は王輔・任尚に追討させ、於除鞬は油断したところを王輔に討たれ、その部衆も殲滅された。

南匈奴の内紛

南単於屯屠何の死後、弟の安国が立ったが人望に乏しく、従兄の師子が実力者として国人に敬われた。安国は師子を除こうとして漢の中郎将杜崇らと対立し、ついに部下に殺されて師子が単於に立った。これに不満な北庭降胡二十余万が前単於の子逢侯を担いで叛乱を起こし、漢は鄧鴻・馮柱・任尚らを派遣して各地でこれを撃破したが、逢侯は北方へ逃走し、朝廷は失態を犯した鄧鴻・朱徽・杜崇を処罰した。

羌族との攻防

護羌校尉鄧訓の死後、後任の聶尚は迷唐(鄧訓に敗れた羌族の首長)を安易に招き寄せて大小榆谷に帰らせたが、迷唐はこれを利用して漢の使者を殺し再び叛いた。以後、貫友・史充・吳祉と護羌校尉が交代するたびに一進一退が続き、劉尚・趙世らの遠征でようやく迷唐を敗走させた。

梁貴人の名誉回復

竇太后の崩御後、和帝は実母が梁貴人(竇太后に隠されていた出生の秘密)であったことを知り、太尉張酺の進言と梁貴人の姉梁嫕の上書により、生母を恭懐皇后として改葬し、梁氏一族の名誉回復と復権を行った。一方、竇太后については、群臣が章帝との合葬に反対したが、和帝は養育の恩から反対を退け、明徳皇后の諡号のまま合葬した。清河王劉慶にも生母宋貴人への祭祀が許された。竇瓌は後に困窮者への貸与を咎められて左遷され、梁氏一族に脅されて自殺に追い込まれた。

陰皇后と鄧貴人

和帝の後宮では、陰識の曾孫女が早くに入内して皇后となっていたが、のちに護羌校尉鄧訓の娘(鄧禹の孫)が入内し、聡明で徳行に優れることから寵愛を集めた。鄧貴人は控えめな態度で陰皇后を立て、外戚の宮中出入りも遠慮するなど謙譲を貫き、和帝の信頼を集めた。陰皇后は嫉妬を募らせ、和帝が病に倒れた際には鄧貴人一族を根絶やしにすると外祖母と謀ったが、これが宮人を通じて鄧貴人に伝わった。鄧貴人は服毒自殺すら考えたが、宮人趙玉に止められ、和帝が快復すると陰皇后の言動が知れ渡り、陰皇后は和帝の寵愛を失っていった。

評語

著者は、夷狄は信義に薄く、恩愛より威に服する性質であるとし、竇憲が於除鞬を立てながら結局は反逆を招いたこと、南匈奴の内紛も杜崇らの偏った肩入れが招いたこと、聶尚が迷唐を安易に懐柔しようとして裏切られたことを、いずれも夷狄への過度な恩愛が招いた失策として批判する。また竇太后の崩御で梁氏が再び興り、鄧貴人の寵愛で陰氏が衰えたことを、外戚の興亡が女性の策謀によって左右される例として指摘し、鄧貴人の徳が称えられる一方で、のちに長く摂政の座に居座ったことから、その謙譲もまた寵を得るための巧みさではなかったかと疑いを呈している。