後漢演義第三十三回 燕然山に登り功を誇り石に刻み、洛陽の市を騒がせ色と財を貪る (登燕然山誇功勒石 鬧洛陽市漁色貪財)

諫言もむなしく北伐強行

侍御史何敞は匈奴討伐と竇篤・竇景の豪邸造営を批判する上疏をしたが取り上げられなかった。尚書僕射朱暉も北伐に反対したが同様であった。朱暉の若き日の義侠心(賊に立ち向かって婦人らを守った逸話)や、亡友の遺族を助け、恩義に篤かった人柄が併せて紹介される。

竇憲の北伐と燕然山の刻石

竇憲は耿秉らと共に朔方から出撃し、南単於の兵とも合流して稽落山で北単於を大破、三千余里を追撃して多数を斬獲・降伏させた。竇憲は燕然山に登り、班固に命じて戦功を石に刻ませ、大いに威を誇った(銘文の趣旨は、漢の武威が北の荒野に及び、匈奴の巣窟を焼き払って永く辺境を安んじたことを称える内容)。竇憲は大将軍に任じられ、三公の上位に置かれるほどの権勢を得た。

北単於掃討と竇氏の専横

南単於が北単於を挟撃したため、竇憲はさらに耿夔・任尚を遣わして金微山まで追い、北単於を敗死させた。竇憲の権勢は絶頂に達し、耿夔・任尚を爪牙、鄧迭・郭璜を腹心、班固・傅毅を文官として抱え込み、地方官の任免まで竇氏の意のままとなった。司徒袁安・司空任隗は不正な官吏四十余名を摘発して罷免させたが、竇氏を直接追及するには至らなかった。

樂恢の直諫と憂死

尚書僕射樂恢は竇氏の専横を上疏で厳しく諌め、辞職して印綬を返上した。しかし竇憲の恨みを買い、京兆尹に監視されて事実上軟禁状態に置かれ、憤死(服毒自殺)した。庶民や門弟子まで多数が弔ったという。竇氏一族はますます驕り、特に竇景は都で強奪・略取をほしいままにし、竇太后の耳に入ってようやく竇景は官職を解かれ、竇瓌も地方に出された。それでも竇氏一族の多くは要職を占め続けた。

北単於後継問題をめぐる論争

和帝が長安に行幸した際、竇憲に対し臣下の礼を超えた万歳の声を上げようとする者もいたが、尚書韓稜がこれを正した。北単於死後、その弟於除鞬を新単於に立てる竇憲の提案に対し、司徒袁安は南単於に北庭を統合させるべきと強く反対する上奏を行ったが、竇太后は竇憲の議を採用し於除鞬を立てることとなった。袁安はこれを深く憂い病に倒れた。

評語

著者は、竇太后が衆議に逆らって竇憲に権を委ね北伐で大功を立てさせたことについて、実際には北匈奴はすでに衰亡しかけており、南単於だけで制圧可能であったのに、竇憲が私功のために大規模な軍を興し、燕然山の刻石で虚名を誇ったに過ぎないと評す。さらに竇憲が侯封を辞退する一方で兵権を握り続け、一族が朝廷を占拠し、直臣を害し私党を植えたこと、竇景が家奴を使って婦女や財貨を略奪したことを厳しく非難する。北単於を滅ぼしては別の単於を立てるという一貫性のない策も、竇憲が私腹を肥やすための謀略ではないかと疑いを述べ、天道は驕慢を憎むと結ぶ。