後漢演義第三十二回 劉暢を殺し罪を懼れ出師を請い、郅寿を繋いで冤を抱いたまま命を終える (殺劉暢懼罪請師 系郅壽含冤畢命)

章帝の崩御と和帝の即位

在位十三年、太平を保っていた章帝は章和二年の春に急に病を得て崩御した。享年三十一。竇皇后はただちに兄弟を宮中に呼び、太子肇(和帝)を立てた。和帝はわずか十歳であったため、竇憲兄弟の主導で竇皇后を皇太后として臨朝させることが決まった。竇太后は兄の竇憲に実権を握らせたかったが、竇憲は前太尉鄧彪を太傅に立てて表向きの体裁を整えつつ、実際には竇氏一族が禁中を牛耳った。竇憲は父竇勲の獄死に関わった韓紆の子を刺客に殺させ、恨みを晴らした。

劉暢暗殺事件

弔問に訪れた都郷侯劉暢は、竇太后の側近の伝手で太后に近づき、たびたび召見されて寵愛を得るようになった。竇憲は劉暢が権勢を奪うことを恐れ、刺客を放って暗殺させた。竇憲は罪を劉暢の弟劉剛に押し付けようとしたが、尚書韓稜や太尉掾何敞の調べにより、真犯人が竇憲であることが露見した。竇太后は激怒して竇憲を宮中に禁錮したが、竇憲は北匈奴討伐への出征を願い出て罪を贖おうとした。

鄧訓の羌族統治

折しも北匈奴は内紛で弱体化し、南単於屯屠何は北伐を上表した。竇太后は執金吾耿秉らの賛成を得て、竇憲を車騎将軍として北伐を許した。出征に先立ち、護羌校尉鄧訓の活躍が伝えられる。前任者たちが羌族との戦いや裏切りの誘殺で失敗を重ねる中、鄧訓は着任すると小月氏の胡人を保護して信頼を得、降伏した羌族を手厚く扱い、迷唐を撃破してその勢力を大きく後退させた。

郅壽の弾劾と非業の死

竇憲は出征に先立ち、留守中の子弟の不正を見逃すよう尚書郅壽に依頼したが、郅壽はその使者を捕らえて訴え、竇憲を王莽に例えて弾劾した。竇憲は郅壽を誣告し、竇太后の怒りを買った郅壽は死罪を宣告された。侍御史何敞の上疏により死一等を減じられ合浦へ流罪となったが、郅壽は憤死(自刎)した。

北伐への諫言と出征

竇憲の専横に対し、三公九卿は連名で北伐反対を上書したが聞き入れられず、袁安・任隗は冠を脱いで強く諌めた。侍御史魯恭も長文の上疏で農事の時期に軍役を興す不利や天意への畏れを説いて反対したが、竇太后は聞き入れなかった。魯恭は中牟令時代に徳治で蝗害を免れ「三異」と称された逸話が併せて紹介される。竇太后は北伐を強行し、竇篤・竇景にも高位と邸宅を与えた。

評語

著者は、劉暢が竇太后に取り入ろうとした行状を呂后・審食其の故事になぞらえ、竇憲がこれを私利のために暗殺したことを非難する。さらに竇憲が出兵によって罪を贖おうとしたことも、罪一つを隠すために万人の命を賭けに出す行為であり容認できないとする。郅壽が直言のために非業の死を遂げた一方、三公九卿の諫言もことごとく退けられたのは、竇太后の私情による偏った寵愛が国の規律を破壊した結果であり、名目上の総己たる太傅鄧彪が沈黙を守ったことも厳しく批判している。