後漢演義第二十五回 北匈奴に抗し鄭衆が強威を挫き、西竺に赴き蔡愔が仏典を求める (抗北庭鄭眾折強威 赴西竺蔡愔求佛典)

馬皇后の徳

馬皇后は自ら子がなく、姉の娘・賈氏が産んだ炟を実子同様に養育し、後宮の淑女を積極的に推挙した。倹約を旨とし粗末な衣を着ていたため、他の妃嬪から誤解されるほどだった。明帝が試みに政務の裁断をさせても私事に及ぶことはなかった。明帝の遊覧に同行を避け、政に口を挟まぬ賢后として知られた。

鐘離意の諫言と明帝の性急さ

北宮増築工事中に旱魃が起こると、尚書僕射鐘離意が「宮室の造営が民の農時を奪っている」と諫め、明帝はこれを聞き入れて工事を止めると雨が降った。また明帝が誤った上奏(十を百と誤記)に激怒した際、鐘離意は自ら罪を引き受けて尚書郎を庇った。明帝は些細な過失にも激しく怒る性癖があり、郎官薬崧を杖で打とうとした際、薬崧の機知に富んだ返答で怒りを解いたこともあった。鐘離意は直言を重ねたため、後に魯相に出された。

梁松の破滅

梁松は太僕となっても驕慢を改めず、私的な書簡で郡県に便宜を図らせたことが発覚して免官、なお怨みを懐いて誹謗の飛書を作り、ついに獄死した。

鄭衆、北匈奴に屈せず

明帝が太子だった頃、山陽王荊と共に鄭衆(鄭興の子)を招こうとしたが、鄭衆は太子・藩王との私交を避けるべきと固辞した。梁松事件の際、この一件のおかげで連座を免れ、明帝に用いられた。北匈奴との和親交渉に鄭衆が派遣されると、北単于への拝礼を拒み「漢臣は天子にのみ拝す」と主張、自刃も辞さぬ気迫で単于を屈させた。帰国後、再度の派遣を命じられた鄭衆は「南単于の離反を招く」と諫めたが聞き入れられず、なお抗弁を続けたため投獄されたが、匈奴使者の証言により潔白と気概が認められ赦免された。

三公の交代と宋均の善政

東平王蒼は権勢が重すぎることを憂い驃騎将軍の印綬を返上したが、明帝はこれを許さず引き続き兼職させた。趙熹・李欣ら三公が交代し、虞延・郭丹・范遷・伏恭らが任じられた。永平年間、皇太后陰氏が崩御し原陵に合葬された。九江太守宋均(かつて武陵蛮を降した監軍)は寛政を敷き、虎害の檻阱を撤去してもかえって虎患が消え、蝗害も九江を避けるなど善政で名声を得た。宋均は「文法吏・廉吏はいずれも民に益がない」と持論を語ったが、改革を果たせぬまま司隷校尉に転じた。

仏教の伝来

明帝は金人が殿庭を飛び去る夢を見て群臣に問うたところ、博士傅毅が「西方の神・仏の幻影であろう」と答えた。これを機に明帝は蔡愔・秦景を天竺(インド)に派遣し仏典を求めさせた。釈迦牟尼の生涯(誕生・出家・苦行・成道・説法・入滅の伝説)と、小乗・大乗の教理、五戒などの概要が語られる。蔡愔らは天竺で経典を得ることができず、沙門の摂摩騰・竺法蘭の助けを借りて釈迦の像と『四十二章経』を白馬に載せて持ち帰った。明帝は洛陽に白馬寺を建立し、両沙門を住持として仏典を安置させた。

楚王英と仏教

楚王英は仏教に帰依し、斎戒し仏像を拝んだ。永平八年、死罪贖罪の縑帛を献じた表文に対し、明帝は「浮屠の仁祠を尚ぶことに何の疑いもない」として縑帛を返し、僧侶への供養に充てるよう答えた。しかし楚王英はこれを口実に方士と結び金亀玉鶴などの偽の瑞祥を作り出すようになり、後に禍を招くこととなる。

(詩:無功で王に封じられた楚王英が、仏を口実に不逞を働き災いを招くさまを詠う)

評語

鄭衆が北匈奴に屈せず脱出できたのは不辱の使命を果たしたと言えるが、明帝がなお再度の派遣を強いたのは彼を再び虎口に投じるに等しく、国にも身にも益がなかった。鄭衆が事情を尽くして訴えても聞き入れず、召還・下獄に至ったのは忠臣を窮地に追い込む所業であった。薬崧には自ら杖打とうとし、鄭衆には軽々しく投獄するなど、明帝の度量の狭さは父・光武帝に及ばない。金人の夢をきっかけに万里の彼方へ仏法を求めさせたことも、修斉治平の道は古の教えに求めれば足りるものを、異族の教えに頼った点で軽率であり、後世に無父無君の弊をもたらす端緒を開いたと言える。