後漢演義第二十四回 津門に行き兄を哭し孝友を全うし、雲台に功臣を図らせ勲親を避ける (幸津門哭兄全孝友 圖雲台為後避勛親)

明帝の即位と喪儀

明帝が即位し、太尉趙熹が喪事を主宰した。旧典が散逸していたため諸王が新帝と同席するなど礼が乱れていたが、趙熹は諸王を降座させ尊卑を正し、藩国官属の宮中出入りを禁じるなど礼制を整えた。皇后陰氏を皇太后とし、光武帝を原陵に葬り世祖と諡した。葬儀は光武帝の遺命通り倹約に努めた。

山陽王荊の陰謀

明帝の同母弟・山陽王荊は陰険な性格で、喪中にも哀しまず、郭況家の使者を装って東海王強に偽の密書を送り、挙兵と帝位簒奪を煽動した。強はこれを怪しみ使者を捕らえて朝廷に届けた。明帝は事の背後に荊がいることを察したが、実弟であることから公にはせず、密かに調べたのみで、喪が明けると荊を国に帰した。

鄧禹・東平王蒼の登用

明帝は詔を発して高密侯鄧禹を太傅、東平王蒼を驃騎将軍に任じた。鄧禹は老齢で就任翌年(永平元年)に病没し、諡を元とされ、封を三子に分けた。東海王強も病没し、明帝は自ら津門亭に出て哀悼、司空馮魴を遣わして葬儀を執り行わせた。強の子政は不行跡であったが襲封を許され、後に不祥事を起こして薛県を削られるに留まった。

羌の反乱と馬武の遠征

西海地方の羌族(爰劍伝説に由来する)が中元二年、隴西に侵入して隴西太守劉盱を破った。謁者張鴻の討伐軍は伏兵にかかり全滅したが、馬武を捕虜将軍として再派遣し、竇固らと共に大軍で滇吾らを撃破、東西邯の地で大勝し、四千六百余の首級と多数の捕虜を得た。馬武は封邑を加増され、まもなく病没した。

礼制の整備と桓栄への厚遇

遼東太守祭肜も烏桓を討って戦果を挙げ、辺境が平穏になったのを機に、明帝は東平王蒼らと共に郊祀・冠冕車服の制度を定め、明堂で光武帝を祀り、辟雍で養老の礼を行った。李躬と桓栄を三老・五更に任じ、明帝自ら礼を尽くして敬った。桓栄は少傅から太常に転じ、明帝は病床の桓栄を親しく見舞い、没後は喪服を着て弔い首陽山に葬らせた。桓栄の子鬱は爵位を兄の子に譲ろうとしたが許されず、その賢徳が評価され侍中に召された。

雲台二十八将

明帝は南宮雲台に功臣二十八将の肖像を描かせ、王常・李通・竇融・卓茂の四人を加えて三十二人とし、その官爵姓名を記録した(鄧禹・呉漢・賈復・耿弇ら歴代の功臣が列挙される)。

馬援の娘、皇后となる

馬援は元配賈氏との間に子なく、後妻藺氏との間に四子三女を儲けた。末子の客卿は幼くして才を示したが早世し、家は讒言によって没落した中でも三女は幼くして家事を差配する才を示し、占い師や人相見が「将来必ず国母となる」と予言した。兄の子・馬厳は竇氏との縁を絶ち、上書して馬援の娘たちを後宮に薦めた。三女は選ばれて東宮に入り、陰后によく仕え、美しい髪や容姿で知られ、明帝の寵愛を受けて貴人となり、永平二年に皇后に立てられた。雲台の肖像に馬援だけが描かれなかったことを東平王蒼が問うと、明帝は微笑むのみで答えなかった(外戚である馬援を憚っての配慮とされる)。

(詩:馬援の冤罪と雲台不掲載を悼む内容)

評語

儲君は廃されればしばしば非業の最期を遂げるものだが、東海王強は境遇に安んじ天寿を全うした。明帝も讒言を信じず強を親愛し、その死を悼んで津門亭で哀哭した点は情義に厚いといえる。とはいえ強が壮年で病没したのは度重なる憂慮によるもので、その遠因は光武帝の処置に帰すべきところがある。明帝の代には鄧禹・馬武ら功臣も相次いで世を去り、雲台に三十二人を描いて顕彰したのは意義深いが、馬援を外戚だからと避けたのは私情に偏った判断であり、公平を欠くものであった。