後漢演義第二十三回 直言を容れ張佚を抜擢し、讖文を信じ桓譚を怒って退ける (納直言超遷張佚 信讖文怒斥桓譚)

班彪の対匈奴策

北匈奴の再三の和親要求に朝議は決しなかったが、司徒掾班彪は「北匈奴が南単于の来附を恐れて和親を求めているに過ぎず、貢物が厚いほど国力は弱っている」と分析し、南単于を助けるでもなく北匈奴を絶つでもない中間の対応を勧める詔文を起草した。光武帝はこれに従い、賞賜を与えて北匈奴を懐柔した。

王氏一族の獄

沛太后郭氏(廃后)が死去し、東海王強が葬儀を司った。折しも王莽の従兄の子・王磐が名声を博し諸王の邸に出入りしていたことを、馬援はかねて危惧し「王氏はすでに廃族なのに京師で浮名を求めれば禍を招く」と側近に警告していた。郭氏の死後、王肅父子が藩王の賓客となっていることを告発する上書があり、光武帝は激怒して王肅父子と関係者千余人を投獄した。呂種(かつて馬援の警告を聞き流していた)も連座し、「馬将軍は神人だ」と悔いた。さらに劉玄の子劉鯉が旧怨から劉盆子の兄を刺殺した事件で沛王輔も連座し投獄されたが、王侯らの嘆願で釈放され、諸王は帰国を命じられた。

太子の師傅選定

皇太子莊の師傅選びで、群臣は太子の舅・陰識を推したが、博士張佚は「天下のためか陰氏のためか」と問い、私情を排して天下の賢才を用いるべきと諫言、光武帝は感服して張佚自身を太子太傅とした。少傅には貧しい中で学問を修めた桓栄が任じられ、太子への講義を務めた。

泰山封禅

建武三十年、東巡した光武帝は群臣の勧める封禅を一度は拒んだが、建武三十二年に『河図会昌符』の讖文を読んで心を動かし、梁松らに讖文を調べさせ、司空張純らの上奏を受けて封禅を挙行した。帰途、張純が急死し、光武帝は改元して中元元年とした。その後も馮勤ら大臣の死が相次ぎ、群臣は祥瑞を競って奏上した。

桓譚・鄭興の直言と讖緯批判

給事中桓譚は讖緯思想の虚妄を上書で諫めたが、光武帝は激怒して処刑をほのめかし、譚を左遷、譚は失意のうちに没した。大中大夫鄭興も讖文を信じないことを咎められて左遷され、後に免官となったが、経学・暦数に優れ多くの学者に影響を与えた。

光武帝の崩御

中元二年、光武帝は多忙な政務を続けたが老衰し、南宮前殿で崩御した。在位三十三年、艱難を経て漢室を再興し、天下平定後は武を退け文を進め、経義を重んじる治世を敷いた点で高祖に劣らぬ器量を示したが、晩年は郭皇后廃立の是非、梁松への寵愛、讖緯への傾倒など瑕疵も残した。

(詩:光武帝の功業を称え、功多く過少しと評す)

太子莊が後を継ぎ、孝明皇帝となった。

評語

光武帝は諸王の濫交を懲らしめ、慎重に太子の師傅を選んだが、陰識を初めに推した点で私情に流れかけた。張佚は正論を述べたものの、その後太子指導に特に功績を残した記録はなく、桓栄は学問を売名の道具にした嫌いがある。桓譚・鄭興は讖緯を疑う正しい見識を持ちながら光武帝に遠ざけられ、封禅から間もなく張純が病死し、まもなく光武帝自身も崩御した。讖語の真偽は明らかであり、後世は過度の迷信を戒めるべきである。