後漢演義第二十二回 馬援は壺頭山で病没し、単于は美稷県に移り住む (馬援病歿壺頭山 單於徙居美稷縣)
五溪蛮の反乱と劉尚の全滅
洞庭湖西南の武陵の五溪に住む蛮人(槃瓠の伝説に由来するとされる)が建武二十三年に反乱を起こし、武威将軍劉尚が討伐に向かった。蛮兵の偽装退却に誘われて深く進軍しすぎ、翌年の暑気と瘴気で軍が疲弊したところを蛮衆に包囲され、劉尚以下全軍が全滅した。臨沅県も危機に陥り、光武帝が派遣した李嵩・馬成もかろうじて城を守るのみだった。
老将馬援、再び出征
光武帝が憂慮していたところ、馬援が自ら出征を願い出た。「六十二歳でもなお甲を着け馬に乗れる」と述べ、実際に武装して馬に跨り気概を示すと、光武帝は「矍鑠たるかな此の翁」と感嘆し出征を許した。馬援は出発に際し謁者杜愔に、権貴の子弟の讒言を恐れる胸中を打ち明けた。
梁松・竇固との確執
かつて馬援が病床で見舞いに来た梁松に答礼しなかったこと、また兄の子・厳への誡めの書簡が図らずも梁松・竇固の不正を暴く証拠となった一件から、両者は馬援を深く恨んでいた。
壺頭山の苦戦と馬援の死
武陵への進路をめぐり、耿舒は充県経由を主張したが馬援は近道の壺頭山経由を選んで上奏し許可された。壺頭山は険阻な天険で、蛮衆に隘路を塞がれ、暑熱と瘴癘で兵士が次々に病死、馬援自身も病んだが、なお将士を励まし続けた。耿舒は兄の耿弇に不満を書き送り、耿弇がこれを光武帝に上奏。光武帝は梁松を派遣して馬援を糾弾させたが、松が到着した時には既に馬援は病没していた。
梁松の讒言と誣告
梁松は私怨から、馬援が交阯で無数の珍宝を持ち帰ったと誣告し、馬武らも同調した。光武帝はこれを信じて新息侯の印綬を没収、馬援は仮埋葬され、賓客も弔問を憚った。妻子が訴えを重ね、朱勃が上奏文で馬援の功績と冤罪を訴えて(実際は薬用の薏苡仁を持ち帰っただけと判明)、ようやく光武帝は帰葬を許した。
武陵蛮の降伏
馬援の死後、監軍の宋均は独断で偽の詔を発して蛮酋単程に降伏を促し、無血で武陵を平定した。光武帝はこれを咎めず功を認めた。馬援の四子は封爵を継げず、恩賞もなかった。
三公の交代と循吏たち
朱浮・杜林・蔡茂ら三公が相次いで死去・罷免され、玉況・張純らが後任となった。かつて朱祐が「三公から『大』の号を除くべき」と建言していたことを受け、光武帝は大司馬を太尉に改め、趙熹・馮勤を任じた。張純は清廉な司空として無為に努めた。桂陽太守衛颯・九真太守伍延・盧江太守王景ら民のためによく治めた循吏、また火事を鎮めた(と偶然を実直に語った)江陵令劉昆、清名高い第五倫らが評価され、光武帝は吏俸を増して清廉な統治を奨励した。
南匈奴の内附と北匈奴の和親要求
匈奴日逐王比は南単于を称して漢に帰順、光武帝は段郴・王鬱を派遣して璽綬を授け、西河郡美稷県への移住を許した。北匈奴の蒲奴単于は南単于に対抗して漢民を放還し和親を求めたが、光武帝は皇太子莊の進言(南単于の離反を恐れる)を容れて拒絶した。臧宮・馬武は北伐を上奏したが、光武帝は「柔よく剛を制す」の道理を説く詔を発し、これを退けた。建武二十八年、北匈奴が再び和親と音楽・西域諸国同行の朝貢を求めてきたので、朝議に付された。
評語
光武帝が伏波将軍馬援を優遇しながら梁松の讒言を軽々しく信じ、印綬を没収して帰葬すら許さなかったことは、後世に「寡恩」と非難される所以である。馬援の壺頭進軍は上奏して許可を得たものであり、失策があったとしても光武帝の責でもある。梁松が帝の婿であったことが讒言を助長したのではないか。馬援自身も讒言を恐れながら早めに身を引かなかった点は、人を見る目には明るくとも己を省みるには暗かったといえよう。南単于の内附は許すべきだが、内地への移住を許したのは華夷の別を乱すもので、後の禍根となった。光武帝は対内には馬援に、対外には南単于の処遇に失があり、政治の難しさを示している。