後漢演義第十八回 寇君の力を借り潁上で鑾を迎え、高峻を降し隴西の乱を平げる (借寇君潁上迎鑾 收高峻隴西平亂)
来歙、略陽を急襲
建武八年、来歙は精兵を率いて険路を切り開き、略陽城を奇襲して守将金梁を討ち取り、城を陥落させた。隗囂は驚いて王元・行巡らを各要地に配し、自ら大軍で略陽を包囲した。公孫述も援軍を送るが、来歙は数か月にわたり籠城を貫いた。
光武帝の親征と馬援の献策
光武帝は略陽救援のため親征を決意し、郭憲らの諫言も退けて西行した。躊躇する諸将の前で、馬援は米を盛って地形を模し作戦を説明、光武帝を納得させた。漢軍は高平に進み、竇融の軍とも合流して隴へ進撃、隗囂は天水へ退き略陽の包囲は解けた。
隗囂軍の瓦解
王遵の書簡を受けた隗囂の将牛邯が投降すると、隗囂配下は雪崩を打って漢に降り始めた。隗囂は西城へ逃れ、公孫述配下の楊広を頼った。光武帝は隗囂の子恂を誅し、諸将に西城・上邽を包囲させ、竇融らを封侯した。
潁川の乱と寇恂の平定
親征中に潁川で盗賊が蜂起し、河東の守兵も叛いたとの報に光武帝は帰還を決意。執金吾寇恂が先駆けとして潁川に赴くと、盗賊はたちまち帰順した。父老たちは寇恂の留任を願い出て、光武帝はこれを許した。東郡でも耿純の徳望により盗賊が戦わずして降った。
西城攻防と忠臣の死
呉漢・岑彭は西城を包囲するが、隗囂の将王捷が自刎して士気を鼓舞し、漢軍は谷水を堰き止めて水攻めを図る。しかし公孫述の援軍による陽動策で撃退され、囲みを解いて撤退した。校尉温序は捕らわれても屈せず、髭を口に含んで自刃し、忠節を示した。祭遵は汧城で病没し、清廉な人柄を光武帝に深く惜しまれた。
隗囂の死と隗純の降伏
隗囂は糧食に窮し病を得て死去。部将らは隗囂の子純を立てて抵抗を続けたが、馮異・耿弇らの攻撃により追い詰められ、最終的に隗純は降伏、王元のみが蜀へ逃れた。後に隗純は再挙を図るも捕らえられ処刑された。
高峻の降伏(寇恂の機略)
高平に拠る高峻に対し、寇恂は使者皇甫文の無礼な態度に怒り処刑を命じる。諸将は反対したが、寇恂は「腹心の使者を斬ることで高峻の戦意を挫く」との読みで実行、果たして高峻は開城して降伏した。
隴右平定
落門も陥落し、隴右は完全に平定された。光武帝は隗氏一族を京師に移し、還京した。
評語
隴右が平定される一方で潁川が乱れるという興亡の際に、寇恂の民心を得た統治が乱を鎮めた。皇甫文を斬って高峻を降した機略も見事である。一方、耿弇らの七軍は軽率に進んで敗れ、呉漢らも功なく労するばかりであった。祭遵は公を先にし私を後にした忠臣として、光武帝に深く悼まれた。