後漢演義第十六回 東都に詣り馬援が主を見極め、西蜀を図り馮異が謀を定める (詣東都馬援識主 圖西蜀馮異定謀)
隗囂と公孫述、光武帝の三者関係
建武六年、関東平定を終えた光武帝は、隴西の隗囂と蜀の公孫述の平定に取りかかろうとしていた。隗囂はかつて漢に帰順し赤眉討伐に協力、大司徒鄧禹から西州大将軍の位を受けていた。公孫述と結んだ呂鮪が三輔に侵入した際も、隗囂は将馮異を助けて撃退している。光武帝は隗囂に厚い書を送り、公孫述に対抗する共同戦線を呼びかけたが、隗囂は動きを鈍らせた。公孫述は隗囂に大司空の印綬を送ったが、隗囂はこれを拒み使者を斬った。以後、公孫述と隗囂は互いに兵を交えつつも決着がつかず、光武帝から蜀討伐への協力を求められた隗囂は、盧芳の脅威を理由に難色を示し、次第に光武帝との関係も疎遠になっていった。
馬援の経歴と隗囂への出仕
隗囂配下の馬援(字は文淵、扶風郡茂陵県の人)は、罪に問われ誅殺された馬通の曾孫。若くして父を失い兄に養われ、大志を抱いた人物であった。督郵として罪人を護送中、その哀願に同情し逃がして自らも逃亡、後に牧畜で財を成すも「大丈夫窮すればますます堅く、老いてますます壮んなるべし」と言い、財産を親族に分け与えて隴・漢の間を流浪した。隗囂に才を見込まれ綏徳将軍として迎えられる。
馬援、蜀を視察するも公孫述に失望
隗囂は漢と蜀のどちらに与すべきか迷い、旧知の公孫述の様子を探らせるため馬援を蜀へ派遣した。公孫述は儀仗を整え尊大に馬援を迎え、高位を授けようとしたが、馬援は「天下の士を厚遇せず、木偶のように飾りにこだわる公孫述では大事はできない」と見限り、辞去して隗囂に「井の中の蛙」と報告、漢に専念すべきと進言した。
馬援、光武帝に謁見
隗囂の命で洛陽に赴いた馬援は、光武帝から気さくに迎えられ、率直な対話を交わす。光武帝の器量に感服した馬援は隗囂のもとへ戻り、光武帝を高く評価する報告をした。隗囂は「高祖より優れているのか」と問い、馬援が「やや及ばない」と答えると気を悪くする。その後、光武帝の勧めで隗囂は長子恂を人質として洛陽に送るが、馬援自身は要職を得られず、上林苑での屯田を願い出て許された。
隗囂の離反と班彪の諫言
隗囂は部下の班彪と漢の興亡について論じ、天命は漢に留まらないと主張したが、班彪は「王命論」を著し、漢の徳がいまだ衰えていないことを説いて隗囂を諭した。しかし隗囂は聞き入れず、班彪は隗囂のもとを去り河西の竇融のもとに身を寄せた。
竇融の去就
竇融は隗囂の勧誘(蜀と結ぶ合従策)を退け、班彪の助言を受けて漢への帰順を固めた。光武帝は竇融を涼州牧に任じ厚遇し、竇融も隗囂への協力を絶っていった。
隗囂配下の離反(鄭興・杜林)
隗囂が王を僭称しようとしたことに対し、祭酒の鄭興が諫めたが聞き入れられず、鄭興は隗囂のもとを去った。治書の杜林も隗囂の変節に嫌気がさし、弟の喪を機に東へ帰ろうとしたが、隗囂は刺客を放って追わせた。刺客は喪を護送する杜林の姿に感じ入り、殺さずに引き返した。
王元の進言と申屠剛の諫言
馬援・班彪・鄭興・杜林ら賢臣を失った隗囂に対し、部将王元は「天水の兵馬を頼みに函谷関へ攻め入るか、少なくとも険を頼りに自立すべき」と進言し、隗囂は心を動かされる。一方、治書の申屠剛は漢帝の信義を裏切るなと諫めたが、隗囂は迷いつつも王元の策に傾いていった。
馮異への流言
隗囂の使者が関中で仇に殺される事件が起き、征西大将軍馮異が疑われる流言が広まった。馮異は召還を願い出るが、光武帝はこれを許さず、逆に洛陽に呼んで手厚く労い、河北時代の恩義を語り合い、隗囂・公孫述討伐の方針を共に定めた。光武帝は馮異に妻子を伴わせて関中へ帰らせ、深い信頼を示した。
公孫述の讖緯利用
公孫述は延岑・田戎を迎え入れて官位を与え、荊州方面への進出を図る一方、讖緯を牽強付会して自らの帝位の正統性を演出した。光武帝は書簡でこれを退けたが、公孫述は答えなかった。部将荊邯の積極策も、公孫述の躊躇と群臣の反対で実行されず、人心は次第に離れていった。
隗囂、漢軍の進路を阻む
光武帝は長安に赴いて陵墓を謁し、耿弇・蓋延ら七軍を隴道から蜀へ進発させた。来歙が璽書を持って隗囂に出兵を促すが、隗囂は答えず、来歙を殺そうとする動きさえ起きた。結局、隗囂は王元に命じて隴坻に木石を積んで漢軍の道を塞がせた。
評語
公孫述は誇り高ぶり、隗囂は疑い深く、いずれも覇王の器ではなかった。馬援は公孫述を見限り隗囂に漢への帰順を勧めた慧眼の持ち主で、光武帝への一見で心服したのも道理である。馮異が讒言を受けても光武帝に疑われなかったのは、両者の信義が厚かったからであり、これが後の隴蜀平定の基盤となった。