後漢演義第十五回 英謀を奮い三戦して斉地を平げ、強虜を苦しめ二年で舒城を落とす (奮英謀三戰平齊地 困強虜兩載下舒城)

董憲・龐萌の掃討

光武帝は昌慮に拠る董憲・劉紆らを急襲して大破する。董憲・龐萌は繒山・朐城へと逃げ延びるが、吳漢の追撃を受け続ける。劉紆は逃走中に殺され、その首が漢営へ届けられた。

耿弇の齊地平定

光武帝は建威大将軍耿弇に張歩討伐を命じる。耿弇は祝阿を落とした後、敵将費邑をおびき出す計略で撃破し、費敢の守る巨裡も敗走に追い込んだ。

続いて耿弇は臨淄と西安の二城を前に、あえて「西安を攻める」と見せかけて手薄な臨淄を急襲する陽動策を用い、副将の反対を押し切って臨淄を陥落させる。張歩は大軍で臨淄を包囲するが、耿弇は籠城策と伏兵策を使い分けて連戦連勝し、負傷しながらも指揮を執り続けて張歩軍を大破した。光武帝は自ら臨淄まで出向いて耿弇の功を「志有る者は事竟に成る」の言葉で称えた。

張歩の降伏

大敗した張歩は劇城に籠るが、光武帝の親征と耿弇の追撃を前に抗しきれず、部将蘇茂を斬ってその首を差し出し降伏した。光武帝は約束通り張歩を安邱侯に封じ、弟たちも赦免された。しかし後に張歩は再び謀反を企てて逃亡し、瑯琊太守陳俊に討たれて一族もろとも滅んだ。

李憲・舒城の攻略

淮南王を自称し、さらに帝を僭称した李憲に対し、揚武将軍馬成は建武二年から二年にわたり舒城を包囲する持久戦を展開する。糧道を断ち続けた末、建武六年についに城を落とし、李憲は逃亡先で部下に殺され首を献じられた。江淮一帯はこれで平定された。

董憲・龐萌の最期

呉漢は朐城を落として董憲の妻子を捕らえる。逃亡を続けた董憲と龐萌は、それぞれ吳漢配下の韓湛、村人黔陵の手にかかって討たれ、東方の戦乱はここに終息した。

評語

評者は、張歩が漢の恩義に背き劉玄・劉永に仕え続けたことを本心薄弱と評しつつ、三度の敗戦を経てなお懲りずに逃亡を図り自滅したことを自業自得と断じる。馬成が二年がかりで舒城を落とした功を、耿弇に及ばぬまでも江淮平定の大功として評価する一方、董憲・龐萌の討伐に手間取った呉漢の功はそれ以下だとし、本回の記述の詳略にこそ各将の功績の優劣が表れていると結ぶ。