後漢演義第十四回 愚かな彭寵は臥榻で命を落とし、智略の王霸は杯を挙げ敵を退ける (愚彭寵臥榻喪生 智王霸舉杯卻敵)
伏湛の親征諫止
彭寵討伐のため光武帝は親征を計画するが、大司徒伏湛は「国内の平定が先、辺境への遠征は時期尚早」と上疏して諫め、光武帝はこれを容れて計画を取りやめた。
涿郡張豐の誅殺
祭遵らが彭寵討伐に向かい、彭寵に呼応した涿郡太守張豐を捕らえる。方術に惑わされ玉璽を得られると信じていた張豐は、まがい物の石だと知って観念し処刑された。
彭寵の最期
彭寵は祭遵・劉喜への攻撃に失敗し、耿況・耿弇父子の反撃も受けて劣勢に陥る。心身が乱れる中、家僕の子密らが彭寵夫婦を殺害してその首を持って洛陽に投降、光武帝は子密を「不義侯」に封じた。彭寵の子・彭午も国師韓利に討たれ、彭寵の乱は終息した。
岑彭・朱祐による秦豐・田戎の討伐
岑彭は策略で秦豐の本拠地黎邱を包囲し、女婿の田戎は当初は降伏を望みながらも周囲の裏切りを恐れて秦豐に加勢する。田戎は敗れて夷陵から逃走し、秦豐も朱祐の攻撃で建武五年に降伏、正法に処された。
董憲・龐萌との戦い
董憲配下の蘇茂・周建は劉紆を奉じて垂惠に拠るが、王霸は「窮寇と正面から戦わず疲弊を待つ」策で敵を翻弄し、大勝を収める。守将周誦の内応で垂惠は陥落、劉紆は逃走中に部将周建の憤死を招く事態となった。
龐萌の裏切りと桃城の戦い
光武帝に厚く信任されていた平狄将軍龐萌は、蓋延の失策に乗じて猜疑を強め、突如反乱を起こした。光武帝は激怒して親征し、桃城で龐萌・蘇茂・佼強の連合軍を迎え撃って大破、乱を鎮めた。
評語
評者は、彭寵の反乱は功に見合わぬ処遇への不満から生じたものであり、耿況が反乱しなかった以上、彭寵に弁明の余地はないとする。また彭寵の妻が夫を諫めず反乱を助長し夫婦ともに非業の死を遂げたことを因果とみる。家僕子密が主を弑した大逆にもかかわらず光武帝が「不義侯」の名で封じたことを、慶吾の一件同様に矛盾した処置として批判する。一方で董憲・龐萌の乱に際し、蓋延・馬武の失策を智勇兼備の王霸が補ったことを称え、光武帝の人材登用の巧拙が中興の成否を左右したと結ぶ。