後漢演義第十回 光武帝は壇に登り即位し、淮陽王は璽を奉じ降を乞う (光武帝登壇即位 淮陽王奉璽乞降)

即位への諸将の勧め

薊から中山、南平棘へと転じる道中、諸将は繰り返し即位を勧めたが、劉秀は「賊がまだ平定されていない」と固辞し続けた。耿純は「士大夫が親族・郷里を捨てて大王に従うのは功名を得たいからであり、これ以上引き延ばせば人心が離散する」と強く諫め、劉秀もようやく「熟慮する」と態度を軟化させた。

各地の情勢と決意

道中、平陵の方望らが孺子嬰を擁立して皇帝としたが劉玄配下の李松に討たれ、嬰も乱軍中に死んだとの報が入る。また公孫述が成都で「成家」を建てて帝を称したとの報も届き、劉秀は「これ以上遅れを取れない」と即位を決意する。鄗で馮異にも意見を求めると、馮異は「更始(劉玄)は必ず敗れる、天命は大王にある」と即位を強く勧めた。

赤伏符の出現

折しも旧知の儒生強華が関中から訪ねてきて、「赤伏符」と称する讖文を献じた。強華はこれを「漢の火徳が再興する兆しであり、大王に帰する」と解説し、劉秀は諸将の上表も受けて、ついに即位を承諾した。

即位式

鄗の南郊に壇を築き、六月己未の日、劉秀は帝冕・龍袍を身にまとい、天地・群神を祀って即位を告げる祝文を読ませた。文中では昆陽の戦功や王郎・銅馬平定の功績、そして讖文の言葉が引かれた。式典の後、劉秀は壇に登り文武百官の朝賀を受け、建武と改元、大赦を発し、鄗邑を高邑と改称した。この年は本来更始三年であったが、史家は光武帝(劉秀の廟号)の中興を正統とし、以後建武を正朔として記す。

劉玄政権の崩壊

一方、劉玄は在位三年、何の功績もなく諸将の離反を招いていた。赤眉軍が関中に迫り、河東を失った王匡・張卬らは長安を略奪して南陽に逃げ帰る計画を立てたが、劉玄がこれに応じなかったため、張卬らは申屠建・隗囂と共に劉玄を拉致する陰謀を企てた。しかし計画は露見し、劉玄は申屠建を誘殺、隗囂は脱出して天水へ逃走。張卬は劉玄の宮殿を焼き討ちし、劉玄は趙萌のもとへ避難した。趙萌は王匡・陳牧・成丹を謀殺しようとし、陳牧・成丹は殺害されたが王匡は逃れて張卬と合流、劉玄軍と交戦の末に敗れ、劉玄はようやく長安に戻ったが宮殿は荒廃していた。

劉盆子の擁立と長安陥落

赤眉の樊崇らは方望の弟方陽の献策により、大義名分を得るため景王(城陽景王劉章)の後裔を探し、牛飼いをしていた劉盆子を籤引きで「上将軍」に選び皇帝として擁立した。わずか十五歳の盆子はこの扱いに怯え、符を噛み砕いて逃げようとしたほどであった。樊崇らは実権を握ったまま盆子を傀儡とし、長安に進撃。劉玄配下の李松は敗れて捕らえられ、李松の弟李泛が城門を開いたため赤眉軍が長安になだれ込み、劉玄は単騎で脱出した。

劉玄の降伏と最期

劉玄は右輔都尉厳本に長安近郊に留め置かれた末、ついに赤眉に降伏を申し出た。肉袒して劉盆子の前で璽綬を差し出す屈辱を受け、張卬・王匡らに殺されかけたが、樊崇・謝祿・劉恭(劉玄の義兄)の取りなしでかろうじて一命を取り留め、赤眉から長沙王に、光武帝からは旧誼により淮陽王に封じられた。しかし赤眉の圧政に苦しむ関中の民が劉玄擁立を企てているとの噂が立つと、張卬らは謝祿を脅して劉玄を郊外に誘い出し、絞殺させた。劉恭が遺骸を収めて密かに埋葬した。後に鄧禹が長安入城後、光武帝の詔により霸陵に改葬された。劉玄の三子はいずれも洛陽で封爵を受けた。

(詩:真の龍ではなく偽りの龍であったが、劉玄の死後もその妻子は帝の恩により無事に過ごせたことを詠む)

評語

少康による夏の再興、宣王による周の中興になぞらえられる光武帝の中興は、鄗南での即位をもって帝統の帰するところが定まり、僭称していた群雄も次第に消えていった。強華による讖文の献上には人為的な色合いも見えるが、劉玄のような凡庸な人物が帝位を狙ったこと自体が「徳を量らず力を量らず」の典型であった。項羽ほどの英雄でさえ垓下で敗れたのに、劉玄が天位を貪ったのは無謀であり、肉袒して璽を捧げ逃げ惑う末路は自業自得と言える。ただし劉玄は暴虐によってではなく弱さによって敗れたため、子孫は世禄を受けることができた。子を残せなかった項羽との対比は、読史者への戒めとなろう。