後漢演義第七回 策を杖き従い片言で主を悟らせ、堅氷を待ち渡る一徳が天に通じる (杖策相從片言悟主 堅冰待涉一德格天)

王憲の乱行と処刑

王憲は宮中に入ると、逃げ遅れた女官たちに乱暴し、王莽の継后史氏まで慰み者にした。帝服をまとい天子の車駕を用いて自ら皇帝気取りで振る舞ったが、京倉を守っていた郭欽らが漢軍に降伏し、李松・鄧曄、続いて申屠建・趙萌が入城すると、璽綬を私したこと・後宮を私したことを咎められて捕らえられ斬首された。莽の首級は宛城の劉玄のもとへ送られ、民衆は莽を憎むあまり首に石を投げつけ、舌を切り刻んで食う者までいた。

洛陽平定と遷都論議

王匡が洛陽を落とし、莽の太師王匡(同名)と国将哀章を捕らえて宛城に送ると、劉玄は速やかに二人を処刑した。豫洛の地が平定されると、諸将は洛陽への遷都を勧め、劉玄はこれに従い、破虜大将軍劉秀に司隷校尉を代行させ、先発して洛陽の宮府を整備させた。

劉秀と陰麗華

兄の死後、政務を避けて閑居していた劉秀は、かつて長安遊学時に「仕官するなら執金吾、妻を娶るなら陰麗華」と語った志を思い出し、陰麗華の消息を尋ねさせた。麗華の兄陰識の取り計らいで縁談が調い、二人は婚姻を結んだ。劉秀は麗華を新野に残し、自らは吏士を率いて洛陽に赴任、司隷校尉として旧漢の官制を復した。劉玄が洛陽入りすると、三輔の官吏は劉秀配下の威儀を見て「漢官の威儀を再び見た」と喜び、人心は次第に劉秀へと傾いていった。

赤眉の招撫失敗と各地の割拠

劉玄は赤眉軍に降伏を勧めたが、樊崇らは劉玄の威儀のなさと恩賞のなさに失望し、密かに脱走して旧営に戻り、崇・逄安の一派と徐宣・謝祿・楊音らの一派に分かれて再び略地を続けた。また廬江の李憲が淮南王を自称して独立した。劉玄配下の諸将は東方には関心が薄く、専ら河北平定を議した。大司徒劉賜は劉秀の器量を高く評価し、朱鮪らの反対を退けて劉秀を大司馬代行として河北に派遣した。

鄧禹との出会い

劉秀は少数の従騎のみを率いて河を渡り、王莽の苛政を廃して前漢の官名を復するなど善政を敷き、民の歓迎を受けた。鄴城で旧知の鄧禹が杖を頼りに追いついてきて、官職を求めず「明公の天下平定に微力を尽くし名を残したい」とだけ望んだ。鄧禹は劉秀に対し、更始帝(劉玄)は器量に乏しく天時人事を得ていないとして、劉秀自身が英雄を集めて漢の大業を再興すべきだと説き、劉秀はこれに深く心を動かされた。

馮異の助言、耿純の帰順

兄を偲び密かに悲しみを抱えていた劉秀に、父城以来仕える馮異は「民は困窮しており、施しを与えれば容易に心服する」と進言、劉秀は各地に官を分遣して民心を収める策を実行した。邯鄲では騎都尉耿純が出迎え、劉秀の威儀と部下の統制に感服して馬や絹帛を献じた。趙繆王の子劉林が黄河の水で赤眉を溺れさせる策を進言したが、劉秀は残酷として退け、耿純を邯鄲に残して自ら真定へ向かった。

王郎の僭称と耿弇の判断

献策を退けられた劉林は占い師王郎に相談し、王郎に唆されて「成帝の子子輿を自称して挙兵せよ」と勧められる。当初は難色を示した劉林も王郎の熱心な勧めに押され、趙国の豪族李育・張参らと結んで挙兵、王郎を偽の子輿として邯鄲で皇帝に擁立した。耿純はこれに従わず単身脱出。王郎は劉玄の帝位を偽りと決めつける檄文を各地に発し、多くの郡県がこれに応じた。

上谷太守耿況の子耿弇は長安へ向かう途中、邯鄲の独立を知り、同行者の孫倉・衛包が王郎側に走る中、王郎を「いずれ滅ぶ小人」と見切り、劉秀の所在を尋ねて合流を決めた。

王郎討伐への準備と苦難の逃避行

劉秀は耿純の報告で王郎の勢いを知り、幽薊を先に固めようと薊州に入るが、募兵は不調で撤退の空気が漂う中、耿弇が「漁陽・上谷の兵を動かせば王郎など恐れるに足らぬ」と諫め、劉秀は思いとどまった。しかし王郎が十万戸の懸賞金で劉秀を追わせ、広陽王の子劉嘉の子接がこれに応じて城内が混乱、劉秀は銚期の奮戦で辛くも脱出した。

寒風の中、食も尽きた一行は馮異が民間で得た豆粥で飢えを凌ぎ、饒陽では偽って邯鄲の使者を装い食を求めるも、従者たちが我先に食べ尽くして驛吏に怪しまれ、劉秀は機転で切り抜けた。滹沱河では船がなく窮したが、王霸が渡河可能と偽って皆を導いたところ、実際に川が凍って渡ることができ、渡り終えると氷が解けるという不思議が起きた。南宮では大雨に遭い、空き家で薪と麦飯を得て凌いだ。下博では白衣の老人に信都行きを教えられて姿を消すという不思議もあった。

信都太守任光は謹厚な人物で、王郎の檄に従わず李忠・万修らと共に固守しており、劉秀を喜んで迎え入れた。劉秀は兵の少なさを嘆いて長安へ援軍を求めようとしたが、和戎太守邳彤が「ここで河北を捨てれば人心を失う」と強く諫め、劉秀は信都に留まって兵を募ることにした。四千の兵を得てもなお不足を感じ、城頭子路・刁子都から兵を借りようとしたところ、ある人物が「不可、不可」と異を唱えた。

(対句:他人に頼らず、男子たるものは自ら強くあるべし)

評語

鄧禹が杖を頼りに劉秀を追い、興漢の計をもって説いたことは、他の中興の功臣たちにも先んずるものであった。智謀は張良・陳平に、勇は韓信・彭越に及ばずとも、後世に功臣の第一に推されるのはこの故である。王郎の僭称と劉林の加担により劉秀は南へ狼狽して逃れ、豆粥や麦飯で飢えを凌ぐ困窮を味わったが、これはまさに「天が大任を降す者には、まずその心志を苦しめ、筋骨を労し、体膚を飢えさせる」との教えの通りである。滹沱河で氷が張り、渡り終えると大風雨が続いたのも、天が真の主を鍛えるための試練であったといえる。