元史紀事本末三帝の即位(明宗/文宗/順帝)(三帝之立(明宗/) (文宗/) (順帝/))
武宗の二子である和実拉(明宗)・図卜特穆爾(文宗)と、明宗の子・托歓特穆爾(順帝)が相次いで位に即くまでの争いを追う。仁宗延祐二年(1315年)に和実拉が周王として雲南に出されてから、後至元六年(1340年)に文宗の廟主が廃されるまでの二十六年間。泰定帝の死後、雅克特穆爾が武宗の子を擁して大都と上都で争い、文宗が即位、明宗は北から迎えられて即位するも行在で急死した。文宗は托歓特穆爾を明宗の子でないとして遠地へ出したが、文宗・寧宗の死後に順帝として立ち、雅克特穆爾一族と文宗の后を退けて怨みを晴らした。
年表(29件)
- 仁宗
- 延祐二年十二月1315年特們徳爾の讒言で武宗の子・和実拉が周王とされ雲南へ出される
- 延祐三年十一月1316年和実拉が延安で関中の兵を挙げようとして失敗し、金山の西北へ去る
- 英宗
- 至治元年五月1321年武宗の第二子・図卜特穆爾が瓊州へ移される
- 泰定帝
- 泰定元年正月1324年図卜特穆爾が瓊州から召し戻される
- 致和元年三月1328年懐王の図卜特穆爾が建康から江陵へ移される
- 致和元年七月1328年泰定帝が上都で崩じ、享年三十六で起輦谷に葬られる
- 致和元年八月1328年雅克特穆爾が大都で兵を挙げて懐王を江陵から迎え、上都は喇実晋巴を立てる
- 致和元年九月1328年懐王が大都で即位して天暦と改元し、雅克特穆爾が上都の兵を白浮で破る
- 致和元年(天暦元年)十月1328年上都が囲まれて降り、諸王の兵も紫荊関などで捕らえられる
- 天暦元年十一月1328年都爾蘇ら逆党を処刑し、使者を遣わして周王を漠北に迎えさせる
- 天暦元年十二月1328年周王が北辺を発ち、諸王・旧臣が軍を率いて扈従する
- 天暦二年正月1329年周王が和寧の北で皇帝の位に即く
- 天暦二年三月1329年文宗が雅克特穆爾を遣わして皇帝の宝を行在所へ奉らせる
- 天暦二年四月1329年明宗が雅克特穆爾に太師を拝し、文宗を皇太子に立てる
- 天暦二年八月1329年皇太子が謁見した翌々日、明宗が行在で急に崩じ、宝が皇太子に授けられる
- 天暦二年九月1329年皇太子が上都で再び位に即き天下に大赦する
- 天暦二年十月1329年大行皇帝に尊謚を奉り廟号を明宗とする
- 至順元年三月1330年皇子の喇特納達喇を燕王に封じる
- 至順元年四月1330年皇后の鴻吉哩氏が明宗の皇后・班布爾実を殺す
- 至順元年五月1330年明宗の子・托歓特穆爾を実子でないとして廃し江南へ送る
- 至順元年十二月1330年燕王の喇特納達喇を皇太子に立てる
- 至順二年正月1331年皇太子の喇特納達喇が没する
- 至順三年八月1332年文宗が上都で崩じる
- 至順三年十月1332年明宗の第二子・鄜王の伊埒哲伯が七歳で即位する
- 至順三年十一月1332年鄜王が薨じ、皇太后が托歓特穆爾を静江から迎えさせる
- 順帝
- 元統元年三月1333年専権と荒淫を極めた雅克特穆爾が病んで死ぬ
- 元統元年六月1333年托歓特穆爾が上都で即位する
- 後至元元年六月1335年雅克特穆爾の子・騰吉斯が謀反に敗れて誅され、皇后の巴約特氏も殺される
- 後至元六年六月1340年文宗の廟主を廃し、太皇太后を東安州へ移して雅克托果斯を高麗へ放つ
仁宗延祐二年十二月(1315年)
- 武宗の子・和実拉を周王に立て、雲南へ出して鎮めさせた。
- もともと武宗が即位したとき、帝(仁宗)を皇太子としたが、後に丞相の三宝努があらためて和実拉を立てるよう勧め、喀喇托克托を呼んでこれを語った。托克托は「太弟は宗社を定め、東宮に居ること久しい。兄弟と伯叔・甥の間で代々受け継ぐのだ。誰がその順序を乱そうか」と述べた。三宝努が「今日、兄が弟に授けたとして、後日、叔父が甥に授けると保証できようか」と言うと、托克托は「我らの側で違えぬかぎり、あちらが信を失えば天が実にこれを見ておられる」と答えた。
- ここに至って太子を立てる議が起きると、特們徳爾は地位を固め寵を得ようとして皇子の碩迪巴拉を立てるよう請い、あわせて太后の幸臣・実勒們とともに和実拉を両宮に讒言した。こうして和実拉は周王に封じられ、雲南の鎮守に出された。
仁宗延祐三年三月(1316年)
- 周王の常侍府の官属を置き、図古勒・鄂爾多・尚嘉努・博囉嘉琿らを充てた。
仁宗延祐三年十一月(1316年)
- 周王の和実拉が延安に宿った。その臣の図古勒・尚嘉努および武宗の旧臣である喇実・沙卜丹・哈巴爾図らがみな集まった。
- 嘉琿は「天下は我が武宗の天下である。王の出鎮はもともと上の御意ではなく、側近の讒言によるものだ。その事情を行省に申し立てて朝廷に届けさせ、離間を封じるべきだ。さもなければ事変は測りがたい」と謀り、数騎とともに馬を飛ばして去った。
- これより先、阿斯罕は太師であったが特們徳爾にその位を奪われ、陝西行省丞相に出されていた。嘉琿らが着くと、ただちに平章政事の塔斉爾、行台御史大夫の図嚕卜、中丞の托歓とともに関中の兵をことごとく発し、道を分けて河中府から入った。
- ところがまもなく塔斉爾と托歓が河中で阿斯罕と嘉琿を襲って殺した。和実拉はそこで西へ向かい、北辺の金山の西北に至った。諸王の察克台らは和実拉が来たと聞いてみな衆を率いて帰属した。和実拉はその部に至って取り決めを結び、毎年、冬は扎延に、夏は阿嚕噶克察山に居り、春には従者に野泥で耕作させた。十年余りの間、辺境は静かであった。
英宗至治元年五月(1321年)
- 武宗の第二子・図卜特穆爾を瓊州へ移した。当時、右丞相の特們徳爾は私心を懐いて寵を固め、骨肉の間に争いを作り出したので、諸王・大臣で危ぶまぬ者はなかった。中政使の約爾珠が托歓・徹爾らが親王と通じていると告げたため、図卜特穆爾を海南に移し、あわせて暦者が諸王・駙馬と交わることを禁じ、陰陽五科を掌る者が占候を漏らすことを禁じた。
泰定帝泰定元年正月(1324年)
- 図卜特穆爾を瓊州から召した。
泰定元年十月(1324年)
- 図卜特穆爾を懐王に封じ、建康に居らせた。
致和元年三月(1328年)
- 懐王の図卜特穆爾を江陵へ移した(この年九月に文宗が即位して天暦と改元する)。
致和元年七月(1328年)
- 帝が上都で崩じた。享年三十六。起輦谷に葬り、泰定帝と称した。
史論(王禕)
- 武宗は兄弟が相継ぎ、その後は子孫が代わる代わる大位に就くと約束した。ところが仁宗は讒言に惑ってかつての約束を守らず英宗に位を伝え、なお武宗の二子である明宗・文宗を外に出して居らせた。英宗が弑され、明宗が北に、文宗が南にあったとき、晋邸が隙に乗じて大統を継いだ。
- ある者は晋邸は立つべきでなかったというが、晋王は世祖の孫であり、序列では年長である。藩服を守ってはいたが盟書もあった。今、国統が継がれないとなれば、立つべき者を求めるに、晋王の系を措いて誰に属せよう。とすれば、晋邸は立つべきでなかったというのも行き過ぎである。
- 旧説では、英宗の弑逆に晋邸も関与していたので、その没後に諡を請い袝廟する典礼を行わなかったのは、賊であることを明らかにしたのだという。しかし実録に照らしてもいずれも事実を確かめられない。伝聞の誤りをどうして信じられようか。
致和元年八月(1328年)
- はじめ帝は晋邸から立ち、和実拉兄弟は武宗の子でありながら南北に流離していたので、人心はこれを思っていた。僉枢密院事の雅克特穆爾は自ら武宗の抜擢の恩を受けた身として、その二子を立てようと謀り、帝の病に乗じて諸王の満都らとひそかに事を図った。
- ここに至って帝が崩じ、皇后と皇太子は使者を大都へ遣わし、平章政事の額卜徳哷勒に百司の印章を収めさせ、あわせて百姓を諭して安んじさせた。
- 甲午、百官が興聖宮に集まると、雅克特穆爾が阿拉克特穆爾・博囉斉ら十七人を率い、兵はみな刃を抜いて、衆に「武宗皇帝には子が二人おられる。天下の正統はそこに帰すべきだ。従わぬ者は死あるのみ」と号令した。そのうえで自ら平章の額卜徳哷勒と巴延徹爾を縛り、勇士に命じて中書左丞の托多、参政の王士熙、参議の托克托・呉秉道、侍御史の特黙格・丘世傑、太子詹事丞の王桓らを捕らえてみな獄に下した。
- 雅克特穆爾は西安王の喇特納実哩とともに内庭を守り、前湖広行省左丞相の拝布哈を推して中書左丞相とし、詹事の達実哈雅を中書平章、蘇蘇を左丞、王布琳済達を枢密副使とし、中書右丞の趙世延らとともに庶務を分掌させ、兵を調えて関隘を守らせ、諸衛の兵を徴して京師に屯させ、郡県に兵器を造らせ、府庫を開いて軍士をねぎらった。雅克特穆爾は禁中に宿直して夜通し眠らず、一夜に二度も居所を移して、誰もその所在を知らなかった。
- 当時、周王の和実拉は遠く沙漠にあって急には来られず、変が起きるのを恐れて、前河南参政の明埒克棟阿を遣わして懐王の図卜特穆爾を江陵に迎えさせ、ひそかに河南行省平章の巴延に意を伝えて兵を選んで扈従に備えさせた。あわせて達実特穆爾に南からの使者を装わせ、懐王がすでに近郊まで来ていると言わせて民が驚き疑わぬようにした。
- 己亥、明埒克棟阿が汴梁に至り、巴延と謀って行省の臣を捕らえてみな獄に下した。
- 癸卯、巴延が平章の奇嚕と右丞の拝特穆爾を殺した。この日、明埒克棟阿らが江陵に至った。
- 甲辰、懐王が江陵を発ち、使者を遣わして鎮南王・威順王・高昌王ら諸王を呼び集め、湖広行省左丞の瑪哈謀を捕らえて京師へ送り、博索を代わりに据えた。河南行省は府庫の金銀・鈔錠を出して官吏・将士に分け与え、また有司に乗輿・供張・儀仗などを造らせ、平章の巴延は兵を整えて待った。
- 参政の図卜台だけは「今、蒙古軍と宿衛の士はみな上都にあり、そのうえ特黙斉の軍に諸隘を守らせている。この事は成らぬのではないか」と述べた。その夜、図卜台は自ら巴延を斬ろうとしたが、巴延は察して剣を抜いて図卜台を殺し、その部下の武器と馬を奪った。
- 丁未、雅克特穆爾は弟の薩敦を居庸関の守りに、子の騰吉斯を古北口の屯営に遣わした。
- 戊申、雅克特穆爾はまた奈曼台を北から来た使者に仕立て、周王もまた兵を整えて南下していると言わせ、聞く者はみな喜んだ。懐王は巴延を河南行省左丞相とし、博囉らに兵を率いて潼関を守らせた。
- 己酉、丞相の都爾蘇が上都で諸王の満都を殺した。満都はこのとき阿穆爾台、宗正札爾固斉の庫庫楚、平章の瑪魯、集賢学士の烏魯斯布哈、太常礼儀院使の哈克斉ら十八人とともに雅克特穆爾に付いていたが、事が露見して殺された。
- 庚戌、懐王が汴梁に至り、巴延らが扈従して北へ向かった。前翰林学士の鄂博哈雅を河南行省平章事とした。
- 辛亥、雅克特穆爾を知枢密院事とした。
- 壬子、托克托穆爾がその軍を率いて上都から帰属したので、ただちに古北口を守らせた。
- 癸丑、上都の諸王が兵を分けて道を分かち、大都を攻めた。
- 乙卯、托克托穆爾が上都の諸王の実喇、平章の奈曼台、詹事の奇徹と宜興で戦い、奇徹を陣中で斬り、奈曼台を捕らえて京師へ送って処刑し、実喇は敗走した。
- 丁巳、懐王が京師に入り大内に居した。明埒克棟阿・庫庫台・蘇蘇をともに平章政事、曹立を右丞、巴延を御史大夫、趙世延を御史中丞、高昌王の特穆爾布哈を知枢密院事とした。
- 己未、上都の梁王旺沁、右丞相の達実特穆爾、太尉の布哈、平章政事の瑪魯、御史大夫の寧珠らの兵が榆林に至った。隆鎮衛指揮の海哈が上都方に付こうと謀り、市中で処刑された。
- この月、道拉実が泰定帝の子・喇実晋巴を上都で帝に立てた。時に九歳、天順と改元した。
致和元年九月(1328年)
- 庚申朔、雅克特穆爾が居庸関で軍を督し、薩敦に兵を率いて上都の兵を榆林で襲わせて破り、懐来まで追って帰った。隆鎮衛指揮の烏徳美は兵を率いて上都方の諸王・穆爾特穆爾・特黙斉を陀羅台で襲って捕らえ、京師へ送った。
- 壬戌、懐王は使者を遣わして五嶽四瀆を祭り、蘇蘇に内外へ次のように宣諭させた。昔、世祖以来、歴代の聖主が臨御するや、いずれも中書省に百司を統べ庶政を総裁させ、銭穀・銓選・刑罰・興造はすべてこれが司ってきた。今より枢密院と御史台を除き、その他の諸司および左右の近侍が中書を飛び越えて奏請することがあれば違制として論じ、監察御史はこれを糾弾せよ——と。
- 上都の将士で帰属した者に等差をつけて鈔を賜った。
- 雅克特穆爾を朝廷に召した。
- 上都の諸王・額森特穆爾らが遼東から兵を率いて遷民鎮に入った。
- 丁卯、雅克特穆爾が諸王・大臣を率いて懐王に早く大位に即いて天下を安んじるよう請うた。王は兄の周王・和実拉が漠北にいるので位を空けて待とうとしたが、雅克特穆爾は「人心の向背の機は髪一筋も入る余地がありません。一度これを失えば臍を噬んでも及びません」と述べた。王は「やむをえぬなら、我が志を明らかにして天下に告げよ」と述べた。
- 己巳、上都の諸王・呼喇台らが兵を率いて崞州に入った。
- 薩敦を遣わして遼東の兵を薊州の東、流沙河で防がせ、敖拉に居庸関を守らせた。
- 伊蘇岱爾を知行枢密院事とし、兵を率いて太行の諸関を巡視させ、西の河中・潼関の軍を撃たせた。
- 辛未、額卜徳哷勒を殺し、托多・王士熙・巴延徹爾・托歓らを遠州へ流し、あわせて家財を没収した。
- 壬申、懐王が大都で皇帝の位に即き、詔を下した。その趣旨は次のとおりである。我が太祖皇帝は海内を統一し、定制を立てて統緒を一つにし、宗親はそれぞれ分地を受けて妄りに望みを起こしてはならぬとされた。これは変わらぬ成規で万世の共に守るべきものである。世祖の後、成宗・武宗・仁宗・英宗は天下を公とする心で順次相伝え、宗王・貴戚もみな祖訓に従った。晋邸に至っては盟書があって藩服を守ると誓っていたのに、賊臣の達実・額森特穆爾らとひそかに通じて陰謀を巡らし、みだりに宝位を犯し、英宗を不幸にも大変に遭わせた。朕ら兄弟は南北に流離して艱難を経、位に臨む事に与れようはずもなかった。朕は叔父であるゆえに慎んで従い、今に六年、災異が相次いだ。権臣の都爾蘇・額卜徳哷勒らは権を専らにし、勲旧を疎んじ忠良を捨て、祖宗の法度を乱し、府庫を空にして一党に私した。大行が崩ずるや幼帝を立てて利とし、公然と国柄を操ってその姦を成した。宗王・大臣は宗社の重きと統緒の正しさをもって、謀り合わせて朕を推戴した。朕は徳が薄く、兄君を待つべきだと再三固辞したが、百僚・耆老は神器を久しく空しくできず天下に主なきはならぬとし、周王は遥かに朔漠を隔てて民が三か月も落ち着かぬと、誠懇迫切に迫った。朕はしばらくその請いに従い、謹んで兄君の到着を待って固く譲る心を遂げよう。すでに致和元年九月十三日、大明殿で皇帝の位に即いた。致和元年を天暦元年とし、天下に大赦してよい。ああ、朕がどうして天下に意があろうか。ただ祖宗が開き創られた困難を思い、大業を毀つことを恐れ、それゆえ輿情に従ったのである。なお内外の文武の臣僚が心を合わせ、億兆を安んじて治功を成すことを頼む。汝ら諸方よ、朕の意を体せよ——と。
- 癸酉、雅克特穆爾を太平王に封じた。
- 乙亥、上都の旺沁の兵が居庸関を襲って破り、将士はみな潰えた。雅克特穆爾は軍を返して榆河に宿り、帝は斉化門を出て軍を検分した。
- 丁丑、雅克特穆爾が来て「乗輿がひとたび出れば民心が必ず驚きます。軍旅の事は臣が身をもって引き受けます」と述べ、帝はその日のうちに宮に戻った。
- 戊寅、雅克特穆爾が旺沁の前軍と榆河で戦って破り、紅橋の北まで追った。その枢密副使の阿拉克特穆爾と指揮使の呼図克特穆爾がまた兵を率いて旺沁と合流して戦ったが、これも破った。
- 辛巳、雅克特穆爾が上都の軍と白浮の野で大いに戦って破った。翌日、大霧の中、旺沁らは崑山へ逃れて散った者を集めまた戦いに来た。雅克特穆爾が白浮の西に陣を敷くと敵は近づけず、夜になって薩敦と托克托穆爾が前後から挟撃して敗走させ、昌平の北まで追いついて数千を斬り、降った者は一万余に上った。
- 帝は使者を遣わして雅克特穆爾に「丞相は戦のたび自ら矢石を冒しているが、万一のことがあればどうする。今より大将の旗鼓で戦を督するだけにせよ」と諭した。雅克特穆爾は「戦は必ず臣が身をもって先んじ、後れる者は軍法に照らします。諸将に委ねて万一敗れれば悔いても及びません」と答えた。
- 乙酉、上都の兵が古北口に入り将士はみな潰えた。その知枢密院事の准台が兵を率いて石槽を掠めた。雅克特穆爾はまず薩敦を倍の速さで石槽へ向かわせて不意を突かせ、自ら大軍を率いてその後に続き、転戦して四十里余、牛頭山に至って駙馬の博囉特穆爾、政事の蒙古達実特穆爾らを捕らえて殺した。降った将校は一万人、残りの軍は逃げ散った。夜、薩敦を古北口の外へ出して追わせた。托克托穆爾は遼東の兵と薊州の南で戦い、殺し捕らえた数は数え切れなかった。
- 丁亥、遼東の軍が京城に迫った。雅克特穆爾は兵を率いて防ぎ、京城で壮丁を募って城に登って守らせた。
- 戊子、上都の諸王・呼喇台らの兵が紫荊関に入り将士はみな潰えた。陝西行台御史大夫の額森特穆爾の兵は大慶関から河を渡り、河中府の官を捕らえて殺した。万戸の徹爾特穆爾の軍は潰えて逃げ、河東の官吏はみな城を棄てて走った。
致和元年(天暦元年)十月(1328年)
- 己丑、雅克特穆爾が兵を率いて通州に至り遼東の軍を撃って破り、托克托穆爾に兵四千を率いさせて西の紫荊関を援けさせた。
- 癸巳、上都の諸王・呼喇台の遊撃隊が南城に迫った。雅克特穆爾および湯翟王・太平・国王多羅台らと檀子山の棗林で戦い、太平を殺し、死者は野を覆い、残りはみな夜のうちに逃げた。
- 乙未、雅克特穆爾らが軍を率いて北山沿いに西へ良郷へ向かった。折しも諸将が呼喇台・阿拉克特穆爾らと盧溝橋で戦い、雅克特穆爾の大軍が来たと言いふらすと敵兵はみな逃げた。
- 丙申、中書省の臣が、上都の諸王・大臣は祖宗の成憲を思わず都爾蘇の言に惑って兵で京畿を犯した、陛下の神武に頼って旺沁は潰え、諸王の博囉特穆爾および用事の臣の蒙古達実らを生け捕りにしてすでに刑に処した、首を四方に伝えて衆に示すべきだと述べ、これに従った。
- 戊戌、諸将が阿拉克特穆爾らを紫荊関まで追って捕らえ、京師へ送ってみな処刑した。
- 己亥、特們徳爾の軍がまた古北口に入った。雅克特穆爾は兵を率いて防ぎ、檀州の南で大いに戦って破り、特們徳爾は遼東へ逃げ帰った。
- 辛丑、斉王の伊埒特穆爾と蒙古元帥の布哈らが兵で上都を囲み、道拉実らは皇帝の璽を奉じて降った。梁王の旺沁は逃げ、遼王の托克托は斉王伊埒特穆爾に殺された。こうして上都の諸王の符印を回収した。喇実晋巴は行方が分からなくなった。
- 丁未、陝西の兵が鞏昌県の黒石渡に至り、虎牢を占拠し、さらに武関に入った。
- 庚戌、帝が興聖殿に出御し、諸王・大臣が皇帝の宝を奉り、使者を分けて行省と内郡に檄を送り兵を収めさせた。
- 甲寅、元帥の伊遜代爾が湘寧王の巴拉実哩を捕らえて京師へ送った。もともと巴拉実哩と趙王の満済勒罕、諸王の呼喇台は上都の命を受けてそれぞれ部下の兵を起こして南下し、冀寧を侵して馬邑に戻って宿っていたが、ここで捕らえられた。
史論(丘濬)
- 泰定帝は裕宗の嫡孫、噶瑪拉の長男であり、続柄では宗子であって、立つべきでなかったわけではない。英宗は達実に弑され、諸王が迎え立てたので、もともとその謀に与ってはいない。
- 武宗の二子も順序からいえば立つべきではあったが、すでに英宗が位に就いた以上、彼らのものではなくなっていた。
- 泰定は即位の年にすぐ喇実晋巴を太子に立て、ここまで五年、名分はすでに定まっていた。それを図卜特穆爾が兵を遣わして攻め、死に至らしめた。他の史書はその死因を明言しないが、死地に追いやったのは図卜特穆爾である。春秋の趙盾の法に照らせば、これを弑逆といわずして何であろうか。
天暦元年十一月(1328年)
- 辛酉、額森鼐の兵が武安に至り、額森特穆爾は軍とともに降った。
- 甲子、陝西の兵が汴梁に迫ったが、朝廷が檄を伝えて兵を収めさせたと聞いて引き揚げた。
- 甲戌、泰定帝の后・翁吉喇特氏を安東州に移した。
- 庚辰、使者を遣わして周王の和実拉を漠北に迎えさせた。
- 癸未、都爾蘇・旺沁・茂穆蘇・寧珠・薩勒迪黙色・額森特穆爾らをそろって処刑した。
天暦元年十二月(1328年)
- 甲寅、あらためて治書侍御史の薩勒迪らを遣わして周王を迎えさせた。当時、諸王はみな周王に京師へ南下するよう勧め、周王は北辺を発した。諸王の察克台、元帥の図烈納らがみな軍を率いて扈従し、旧臣の博囉・尚嘉努・哈瑪爾図もみな従った。金山嶺の北に至り、博囉に京師へ赴くよう命じた。
天暦二年正月(1329年)
- 庚申、前翰林学士承旨の布達実哩を北へ帰らせて周王の行在所へ遣わし、あわせて太府太監の実喇卜に金帛を奉じて赴かせた。
- 乙丑、あらためて中書左丞の伊埒特穆爾を遣わして周王を迎えさせた。
- 壬午、周王が博囉を京師へ遣わした。
- 乙酉、薩勒迪らが行幄で周王に謁して即位を勧めた。
- 丙戌、周王が和寧の北で皇帝の位に即いた。薩勒迪を京師へ帰らせ、「朕の弟はかつて書史を読んでいたが、近ごろは廃していないか。政を聴く合間には賢士大夫と親しみ史籍を講論して古今の治乱得失を知るべきである。卿らは京師に至ったら朕の意を伝えよ」と命じた。旧臣および両宮の人々は北の使いが来たと聞き、みな「我が天子はまことに北から来られる」と歓呼し、争って迎え謁し、行く先々で人が集まった。
天暦二年二月(1329年)
- 辛卯、妃の鴻吉哩氏を皇后に立てた。
- 辛丑、周王の母・伊奇哩氏および母の唐古氏をともに皇后に追尊した。
- 辛亥、帝(文宗)が群臣に「薩勒迪が帰って、大兄はすでに皇帝の位に即かれたと言う。二月二十一日以前に官に任じた者は速やかに制勅を与えよ。以後の銓選はすべて大兄の行在所に伺って裁可を得よ」と勅した。
天暦二年三月(1329年)
- 辛酉、帝が雅克特穆爾を遣わして皇帝の宝を行在所へ奉らせた。
天暦二年四月(1329年)
- 癸巳、雅克特穆爾が行在所で謁見した。行在はその功を嘉して太師を拝し、あわせて「京師の百官で朕の弟が用いた者はすべて留任させる。朕の意を伝えよ」と諭した。
- 雅克特穆爾はそこで「陛下が万方に君臨されるにあたり、国家の大事の懸かるところは中書省の臣・枢密院・御史台にほかなりません。人を選んで充てるべきです」と奏し、武宗の旧臣である哈瑪爾図を中書平章政事、拝特穆爾を知枢密院事、博囉を御史大夫とした。
- 甲午、行枢密院を立て、昭武王に知院事、和斯賽音特穆爾と瑪努勒に同知院事を命じた。この日、諸王・大臣を行殿で宴し、台臣に次のように諭した。太祖の訓えに「美色と名馬は誰もが喜ぶ。しかし心にひとたび囚われが生じれば、名を壊し徳を損なう」とある。卿らは風紀の司にありながら、これを思ったことがあるか。世祖がはじめて御史台を立てたとき、まず塔斉爾と博克達済の二人に協力してその政を司らせた。天下国家はたとえば一人の身であり、中書は右手、枢密は左手である。左右の手に病があれば良医に治させる。省と院の欠失を御史台に治めさせずにおれようか。諸王・百司が法を犯し礼を越えれば一切を弾劾に任せる。風紀が重ければ貪吏は恐れる。斧が重ければ木に深く食い込むのと同じ理である。朕に欠失があれば卿らもまた奏聞せよ。朕は責めはしない——と。
- 癸卯、行在が使者を遣わして帝(文宗)を皇太子に立てた。
- 己未、皇太子が翰林学士承旨の阿拉克特穆爾を遣わして行在に謁見させた。
- 乙亥、行在が大都の省臣に皇太子の宝を鋳るよう勅した。旧来の太子の宝を求めたが所在が分からず、そこで改めて鋳るよう命じたのである。
- 丁丑、皇太子が京師を発って北へ行在を迎えに向かった。
天暦二年六月(1329年)
- 丁亥、行在が琨都楞鄂布爾に宿り、近侍の拝布哈を京師へ遣わした。
- 庚戌、皇太子が上都の六十店に宿った。
- 辛亥、行在が哈喇哈納図に宿り、中書省の臣に、国家の銭穀・銓選など諸大政事はまず皇太子に啓してから奏聞するよう詔した。
天暦二年八月(1329年)
- 乙酉、行在が翁果察図に宿った。
- 丙戌、皇太子が入って謁見した。この日、行在は皇太子および王・大臣を行殿で宴した。
- 庚寅、帝(明宗)が行在で急に崩じた。皇太子は入って哀を尽くして哭し、雅克特穆爾は行在の皇后の命により皇帝の宝を皇太子に授けた。
史論(胡粹中)
- 古老に聞いたところでは、雅克特穆爾が璽綬を奉ったとき、明宗の従官に礼をとらぬ者があり、雅克特穆爾は怒りかつ恐れた。まもなく帝が急死すると、雅克特穆爾は哭声を聞くやただちに帳に駆け込んで宝璽を取り、文宗を助けて馬に乗せ、南へ馳せたという。
- ところが本史は、皇太子が入って哀を尽くして哭し、雅克特穆爾が皇后の命で皇帝の宝を太子に授けたという。その説は合わない。当時の忌諱のために明言できなかったのではないか。
天暦二年九月(1329年)
- 癸巳、皇太子が上都に至った。
- 己亥、皇太子が上都で再び位に即き、天下に大赦した。巴延を左丞相、奇徹台・阿爾斯蘭哈雅・趙世延をともに平章政事、達哩を右丞、鄂允と趙世安をともに参知政事、達実特穆爾を知枢密院、特穆爾布哈と特穆爾図をともに御史大夫とした。
- 丁巳、帝が大都に還った。
天暦二年十月(1329年)
- 丙申、大行皇帝に尊謚を奉り、廟号を明宗とした。
至順元年三月(1330年)
- 皇子の喇特納達喇を燕王に封じた。
至順元年四月(1330年)
- 皇后の鴻吉哩氏が明宗の皇后・班布爾実を殺した。
至順元年五月(1330年)
- 明宗の子・托歓特穆爾を廃した。
- 当時、帝は自らの子・喇特納達喇を皇太子に立てようとし、そこで托歓特穆爾の乳母の夫の言葉として、明宗が存命中つねに太子はその実子でないと言っていたことにして退け、江南へ駅送した。翰林学士の阿拉克特穆爾、奎文閣大学士の和塔拉都哩黙色を召してその事を托卜斉雅に書かせ、さらに虞集を召して詔を書かせ、内外に告げさせた。
至順元年十二月(1330年)
- 燕王の喇特納達喇を皇太子に立てた。
至順二年正月(1331年)
- 皇太子の喇特納達喇が没した。
至順二年八月(1331年)
- 太子の古嚕達喇を雅克特穆爾の家に出して住まわせるよう詔した。
至順二年十一月(1331年)
- 雅克特穆爾の子・塔喇海を養子とするよう詔した。
至順三年八月(1332年)
- 帝が上都で崩じた。廟号を文宗という。
至順三年十月(1332年)
- 庚子、鄜王の伊埒哲伯が皇帝の位に即いた。鄜王は明宗の第二子である。
- 帝が崩じた当初、雅克特穆爾は皇后に皇子の雅克特穆爾(古嚕達喇)を立てるよう請うたが、后は従わず、鄜王を立てさせた。時に七歳、百司の庶務はみな皇后に啓して裁可を仰いだ。
至順三年十一月(1332年)
- 戊寅、皇后を尊んで皇太后とした。
- 壬辰、鄜王が薨じた。廟号を寧宗という。
- 皇太后は右丞の奇爾済蘇を遣わして托歓特穆爾を静江に迎えさせた。もともと托歓特穆爾は廃されて高麗に移され大青島に住まわされ、のちに静江に移されていた。ここに至って鄜王が薨じ、雅克特穆爾はあらためて雅克托果斯を立てるよう請うたが、皇太后は「私の子はまだ幼い。托歓特穆爾は広西にあって今年十三である。しかも明宗の長子で、道理として立てるべきだ」と述べ、奇爾済蘇を遣わして迎えさせたのである。
順帝元統元年三月(1333年)
- 雅克特穆爾が死んだ(原文はこの条の前に「三年六月」と記す)。
- 雅克特穆爾は権を握って以来、憚るところなく思うままに振る舞った。一度の宴で馬十三頭を潰すこともあり、泰定帝の后を娶って夫人とし、前後に宗室の女四十人を娶り、交礼から三日で帰した者もあった。後房に女があふれて全部は覚えきれず、ある日、趙世延の邸で宴があり男女が並んで座っていたとき、座の隅に甚だ美しい婦人を見て連れ帰りたくなり、左右に「これは誰か」と尋ねると「太師の家の者です」と答えられたほどであった。以後、荒淫は日ごとに甚だしくなり、体は痩せ衰えて血尿を出して死んだ。
順帝元統元年六月(1333年)
- 己巳、托歓特穆爾が上都で皇帝の位に即いた。
- はじめ帝が広西から迎えられて来たとき、百官が鹵簿を備えて良郷で出迎えた。雅克特穆爾は謁見すると馬を並べてゆっくり進み、迎え立てる意を詳しく述べたが、帝は雅克特穆爾を畏れて何も答えなかった。雅克特穆爾はその心が測りがたいと疑い、そのため京に着いても久しく即位できなかった。折しも太史も、この人を立てれば天下が乱れると述べたため、議は決せず数か月引き延ばされた。ここに至って雅克特穆爾が死に、皇太后は大臣と議を定めて立て、あわせて後は雅克托果斯に伝えること、武宗・仁宗の故事のようにすることを約束した。
順帝元統元年七月(1333年)
- 雅克特穆爾の娘の巴約特氏を皇后に立てた。
順帝元統元年八月(1333年)
- 奎章閣侍書学士の虞集が病と称して帰郷した。
- 帝が立てられようとしていたころ、諸老臣を上都に召して議させ、集も参加した。中丞の馬祖常が人を遣わして「御史に言い出す者がある」と告げた。文宗がかつて集に詔を書かせて帝は明宗の子でないと言わせたことがあったので、祖常はこれをほのめかして去らせたのである。集はそこで病と称して帰った。
- 集が去った後、侍臣に旧詔のことを言う者があったが、帝は不快になって「これは我が家の事だ。あの書生の関わることではない」と述べ、不問に付した。
後至元元年六月(1335年)
- 左丞相の騰吉斯が処刑され、続いて皇后の巴約特氏が殺された。
- 騰吉斯は雅克特穆爾の子である。当時、右丞相の巴延が一人で政を執っていたので、騰吉斯は憤って「天下はもともと我が家の天下だ。巴延は何者で我が上に位するのか」と言い、叔父の句容郡王・達蘭達哩とひそかに異心を抱き、諸王の鴻和特穆爾を立てようと謀った。帝がたびたび達蘭達哩を召しても来ず、郯王の蘇蘇勒図がその謀を告発した。
- 騰吉斯は東郊に伏兵を置き、勇士を率いて宮に突入したが、巴延および旺扎勒特穆爾らが不意を突いて捕らえ、あわせてその弟の塔喇海を殺した。塔喇海は皇后の座の下に逃げ隠れ、后が衣で覆ったが、左右が引き出して斬り、血が后の衣に飛び散った。
- 巴延は人を遣わして后も捕らえさせた。后が「陛下、お救いください」と叫ぶと、帝は「汝の兄弟が逆を謀った。どうして救えよう」と述べ、后を宮から出し、巴延が開平の民家で殺した。鴻和特穆爾も自殺した。
- 詔を下して述べた。かつて文宗皇帝は、雅克特穆爾に功労があったとして父子兄弟を朝廷の顕職に列したが、事の端を作って朕を遠方へ出した。文皇はまもなくその妄を悟り、旨をもって朕に伝位された。ところが雅克特穆爾は利を貪り幼弱を望んで朕の弟の伊埒哲伯を立てたが、不幸にも崩じた。今の丞相・巴延が遺詔を追い奉じて朕を南に迎えたが、大都に着いても雅克特穆爾はなお二心を懐いて数か月引き延ばした。天がその身を殞し、巴延らが口を揃えて翊戴して、ようやく大位を正した。その後、薩敦・達哩・騰吉斯らが相次いで政を執り、宗王の鴻和特穆爾と通じて社稷を危うくしようと図り、阿斉雅斉もかつてその謀に加わった。巴延らのおかげで順次捕らえてその罪を正した。元凶が難を構えて我が皇太后を震え驚かせ、朕も慎み恐れた。思えば皇太后はご自身の生んだ子を後にし、ひとえに至公を心として自ら大宝を朕ら兄弟に授けられた。両朝にわたって策を定められた功徳は隆盛で、近古に比べるものが稀である。かつて尊号を奉ったが、朕の心を量ればなお尽くしていない。すでに大臣に特に礼を加える議を命じた。巴延は武宗のために北辺を守り、文皇を翊戴し、このたびまた大逆を除いて国憲を明らかにした。よって達爾罕の号を賜り、子孫代々永く頼らせる。天下に大赦してよい——と。
後至元元年八月(1335年)
- 皇太后を尊んで太皇太后とした。
後至元六年六月(1340年)
- 文宗の廟主を廃し、太皇太后の鴻吉哩氏を東安州に移して安置し、雅克托果斯を高麗へ放つよう詔した。
- 詔の趣旨は次のとおりである。昔、武帝が崩じたとき、太后は佞人に惑って我が皇考を雲南に封じて出された。英宗が害に遭ったとき、我が皇考は武宗の嫡でありながら遠く沙漠にあり、親王・大臣が心を合わせて翊戴した。そのとき地が近いというので先に文宗を迎えてしばらく機務を総べさせ、続いて天理と人倫の在りかを知って、譲位の名を借りて宝璽を奉ってきた。皇考は誠意を推して疑わず、ただちに皇太子に立てた。ところが文宗は自ら迎えに出た際、その臣の伊埒布哈・額哩葉・明埒克棟阿らと不軌を謀り、我が皇考を恨みを呑んで崩じさせ、帰ってふたたび宸極に即き、さらにひそかに子に伝えようと図って邪説を構え、禍を布爾錫皇后に嫁して朕を明宗の子でないと言い、遠い辺地へ出して住まわせた。内心に恥じ憚って額哩葉を殺して口を封じた。天が佑けず、ついに殞罰を下された。叔母の布達実哩はその勢いを恃み、明考の嫡子を立てず、朕の幼い弟の伊埒哲伯を立てたが、これもまた年を経ずに崩じた。諸王・大臣が賢によって長によって朕を扶けて践祚させ、天の霊に頼って権奸は退けられた。育まれた極まりない恩を思っても、共に天を戴かぬ義を忘れるに忍びない。よって太常に命じて図卜特穆爾の廟にある主を撤し、布達実哩の太皇太后の号を削って東安州に移して安置し、雅克托果斯を高麗へ放つ。当時の賊臣の伊埒布哈・額哩葉はすでに死んでいる。明埒克棟阿らを正しく刑に処せ——と。
- 当時、監察御史の崔敬が「文皇は不軌の咎により、すでに廟の祀りを撤せられました。叔母も禍の階を作った罪により大いなる号を削られました。孝を尽くし名を正すのはこれで十分です。ただ皇弟の雅克托果斯は年がまだ幼く、この流離に遭うのは天理人情として忍びません。明皇が崩じたとき皇弟はまだ襁褓にあって分別もありませんでした。義として憐れむべきです。伏して願わくは陛下、太后母子を迎え戻して骨肉の義を尽くされますよう」と述べたが、返答はなかった。
- まもなく太后は東安州で没し、雅克托果斯は途中で害された。