元史紀事本末阿哈瑪特と僧格の姦悪(阿哈瑪特僧格之奸)

世祖に理財の才を寵愛された阿哈瑪特・盧世栄・僧格が相次いで政を専らにし、いずれも誅されるまでの経過。阿哈瑪特は崔斌らを誣告して殺し、至元十九年(1282年)に王著の銅槌に撃たれ、死後に屍を戮された。続く盧世栄は榷酤や規措所で増収を図って陳天祥に弾劾され、僧格は徴理司による銭穀の調査で天下を騒がせ、徹爾・博果密・趙孟頫らの諫言で失脚した。成宗元貞元年(1295年)の銓選是正までの十五年余を扱う。

年表(27件)

世祖至元十七年十二月(1280年)

  • 平章政事の阿哈瑪特が江淮の銭穀の会計監査を奏請し、行省平章の阿勒巴、右丞の雅克特穆爾、左丞の崔斌を誣告して死に至らしめた。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
  • 阿哈瑪特は回紇人で、利殖の術を説いて帝に寵愛された。中統三年に左右部を設けて庶務を分掌させた際、阿哈瑪特がこれを統べ、あわせて諸路転運使を兼ねて財賦を専管した。
  • 阿哈瑪特は何事も中書省を通さず直接奏聞したいと望んだ。当時、張文謙が政府にあって「財用を分けて管理するのは古来の理だが、中書が関与しないなら天子自らが臨むというのか」と強く論じたため、沙汰やみとなった。
  • 翌年、阿哈瑪特は河南の鈞州・徐州などに鉄冶があるとして鋳造の利を興すよう請い、三千戸を徴集して操業させ、毎年百三万七十斤の鉄を納めさせた。
  • 至元元年には、太原の民が小塩を煮て越境販売し、民が安さを求めて争って買うため解塩が売れず、年の課銀が七千五百両にとどまるとして、年五千両の増額と、諸種の兵民を問わず一律に賦課することを請うた。
  • 帝は阿哈瑪特を有能とみて左右部を廃して中書に戻し、阿哈瑪特を抜擢して平章事に任じた。
  • 至元六年に御史台が新設されると、阿哈瑪特は自分の悪事が暴かれるのを恐れ、帝に「庶務は各路に責任を負わせ、銭穀は転運に委ねているのに、必ず取り締まりが入るのでは事が運びません。御史台と諸道の提刑司を廃してください」と述べた。廉希憲は「台察を置くのは、内では姦邪を糾弾し、外では非常を察し、民の苦しみを訪ねて国政を助けるためで、これに勝る益はない。阿哈瑪特の言うとおりにすれば、上下が思うままに振る舞い貪暴が公然と行われて、それで事が運ぶというのか」と反論し、阿哈瑪特は言葉に詰まって取りやめた。
  • 当時、帝は富国を急いでおり、阿哈瑪特の施策に成績が上がるのを見、また史天沢としばしば論争して天沢が言い負かされるのを見て、いよいよその才を非凡とみなし、専ら任せて言うことは何でも聞き入れた。阿哈瑪特はますます横暴になった。
  • もともと官吏の銓選は、吏部が資品を定めて尚書省に上げ、尚書省が中書省に諮ってから奏聞する制度だった。阿哈瑪特は私人を抜擢するのに吏部の擬定も中書への諮問も経なかった。安図がこれを問題にすると、帝が阿哈瑪特に問い、阿哈瑪特は「事は大小を問わずすべて臣に委ねられております。臣が用いる人は臣が自ら選ぶべきです」と答えた。安図はそこで、今後は重刑の裁断と上路総管の任命だけを自分に属させ、あとは阿哈瑪特に任せてほしいと請い、帝はこれに従った。
  • 阿哈瑪特はさらに条例の改定を請い、諸路に戸口の調査を命じ、太原の塩課を千錠を定額として増やした。
  • 至元十五年、江西の榷茶運司および諸路の転運塩使司・宣課提挙司・宣課司の設置を奏請し、官吏は五百余人にのぼった。
  • 崔斌が上言し、江南は官が多すぎること、杭州は地が広く民が多いのに阿哈瑪特が私情に溺れて不肖の子・瑪蘇庫を任じていること、また阿哈瑪特は以前に自ら子弟の任官を辞退しておきながら、今や自分が平章となり子や甥が参政・尚書・将作監や会同館の長となって一門が要職を占め、公道を損なっていることを述べた。帝は斌の言を是として罷免を命じたが、結局それを阿哈瑪特の罪とはしなかった。
  • その後、淮西宣慰使の昂吉爾が入朝してやはり官の多さを述べた。そこで詔により江西省を福建に併合し、榷茶営田司を廃して本道の宣慰司に帰し、漕運司を廃して行省に帰した。
  • ここに至って崔斌は江淮行省左丞に転じた。阿哈瑪特は自分の害になると憤り、江淮行省の銭穀の監査を奏請し、斌と阿勒巴らが官糧四十万を盗み、任命官八百余員を勝手に入れ替えたと誣告した。都事の劉正らを遣わして取り調べさせたが立件できず、さらに参政の張澍らに合議で取り調べさせ、ついに斌らを死に至らしめた。
  • 斌は文学に長け政術に通じ、阿爾哈雅の副将として荊湖・広海を平定してしばしば大功を立て、多くの人命を救っていた。太子は斌が殺されたと聞いて食事中に箸を投げ出し、痛ましく思って使者を出して止めさせたが間に合わず、天下の人はこれを冤罪とした。

至元十八年閏八月(1281年)

  • 江南の戸口と税課を調査した。当時、京兆などの路の年課は一万九千から五万四千錠に増えていたが、阿哈瑪特はなお実数でないとして調べ直そうとした。帝はその非を察して取りやめた。

至元十九年三月(1282年)

  • 益都千戸の王著が宮闕の下で阿哈瑪特を殺した。
  • 著は人々の怒りを背景に、ひそかに大きな銅槌を鋳造し、妖人の高和尚と謀って阿哈瑪特を撃ち殺すことにした。当時、皇太子は帝に従って上都におり、阿哈瑪特が京師を留守していた。
  • 著は、太子がかねてその奸悪を憎んでいるのを利用し、二人の西域僧を中書省へ遣わして、皇太子が都に戻って仏事を行うと偽らせた。省中が疑い、宿衛にあった高觿と張九思が問い詰めると、僧はうろたえて答えられず、捕らえて訊問したが白状しなかった。
  • 午に至り、著はまた太子の令と偽って枢密副使の張易に兵を出して夜に東宮へ集まるよう伝えた。易は確かめずにすぐ兵を率いて向かった。觿が「何のためか」と問うと、易は耳打ちして「太子が左相を誅しに来られる」と答えた。
  • やがて省中が使者を出して出迎えさせたが、みな偽の太子一行に殺され、馬を奪われて建徳門から入った。夜二鼓に東宮の前に至り、馬上のまま省の官を呼び出し、阿哈瑪特を前に呼んで数言責めるや、著は引きずり出して袖に隠した銅槌で頭を砕き、即死させた。続いて郝禎を呼び出して殺し、右丞相の張惠を捕らえた。
  • そこで觿と九思が門を開けて「こやつは賊だ」と大声で叫び、衛士に急ぎ捕らえよと命じた。留守の布敦が棒で馬上の者を打ち落とし、他の者は逃げ散ったが多くが捕らえられた。高和尚は逃げ去り、著だけは身を挺して縛につくことを願った。
  • 帝は察罕諾爾にあってこれを聞き、ただちに和爾果斯らを帰らせて乱を討たせ、高和尚を高梁河で捕らえ、王著・張易とともに市中で処刑した。
  • 著は刑に臨んで「王著は天下のために害を除いた。今死ぬが、いつか必ず私のことを書き記す者があろう」と大声で叫んだ。
  • また張易が著に従って乱に加わったとして首を四方に伝えようとしたが、張九思が「易は変事に対する見極めを誤ったのは確かだが、共謀の罪に問うのは行き過ぎだ」と述べて梟首の免除を請い、容れられた。

史論(王惲)

  • 王著は義に発して一身を捨て天下のために害を除いた。事が露見しても逃げず、自ら縛について司法に出頭し、刑に臨んでも気力は少しも挫けず、死を恐れなかった。まさに身を殺して名を成し、死んでも悔いぬ者である。春秋の乱臣賊子を誅する法に照らせば、その行いを義と認めないわけにはいかない。

至元十九年四月(1282年)

  • 詔により阿哈瑪特の屍を戮し、その一党を徹底して処断した。
  • 阿哈瑪特が死んだ当初、帝はまだその奸悪をよく知らなかったが、枢密副使の博囉に問うてすべての罪状を知り、大いに怒って「王著が殺したのはまことに正しい」と述べた。墓を暴いて棺を開き、通玄門の外で屍を戮して犬に食わせ、四民が集まって見物し快哉を叫んだ。
  • 家財を没収すると、櫃に人の皮二枚が収められていた。問うと妾は「呪詛のたびに神座の上に置いていた」と答えた。また帛二幅に、甲冑の騎兵が幄殿を包囲し、兵がみな弦を張り刃を構えて内へ向ける図が描かれており、不軌の疑いがあった。そこで子の庫克新ら四人も誅した。
  • まもなく中書に命じてその一党をことごとく罷免させ、中書省・尚書省・六部から七百十四人を淘汰し、濫設された官府二百余か所を廃した。また郝禎・耿仁の悪事への加担がとくに甚だしいとして、禎の棺を開いて屍を戮し、耿仁を獄に下して誅した。
  • もともと阿哈瑪特は秦長卿・劉仲沢・伊克莽多卜丹の三人を誣告して殺そうとしたが、兵部尚書の張雄飛が強く反対した。阿哈瑪特は人を遣わして「この三人を殺せたら参政の地位を与えよう」と誘ったが、雄飛は「人を殺して大官を求めることはできぬ」と答えた。阿哈瑪特は怒って澧州安撫使に出したが、雄飛は畏れず、のち御史中丞に遷って行御史台の事を執った。阿哈瑪特は、子の庫克新が江淮右丞になっても容れられまいと恐れ、陝西按察使に改めた。赴任前に阿哈瑪特が死んだので、召されて参知政事を拝した。
  • 庫克新が逮捕され、勅により廷臣が合議で訊問した際、庫克新は宰執を一人ひとり指さして「お前たちはかつて我が家の金を受け取っている。どうして私を訊問できるのか」と言った。雄飛が「私は受け取ったか」と問うと、「公だけは受け取っていない」と答えた。雄飛が「ならば私が汝を訊問しよう」と言い、庫克新はついに罪に服した。

至元二十一年十一月(1284年)

  • 安図を右丞相、盧世栄を右丞、史枢を左丞、薩勒迪黙色と廉希恕をともに参知政事とした。
  • はじめ阿哈瑪特が政を専らにしていたころ、世栄は賄賂で江西榷茶運使に取り立てられ、罪を得て免職となっていた。阿哈瑪特が死ぬと朝臣は利を語ることを憚り、帝の意にかなう者がいなかった。総制院使の僧格が、世栄には国を富ませる才があると推薦した。召して問うと意にかない、中書省で施策を弁論させた。右丞相の和爾果斯らはみな議が合わず辞職したため、安図がふたたび右丞相となり、世栄を右丞とした。史枢らはみな世栄が推薦した者である。
  • 世栄は中書に入るとその日のうちに詔を奉じて鈔法の弊を整理し、自分には財を生む法があり、それを用いれば賦は倍増しても民は煩わされないと称した。翰林学士の董文用は「その銭は右丞の家から取るのか、民から取るのか。右丞の家からなら私は知らぬが、民から取るなら申すことがある。羊飼いは年に二度毛を刈るが、毎日刈って主人に献じれば、主人は毛が多く得られて喜ぼう。しかし羊は寒暑を避けられずに死に絶え、毛も得られなくなる。民の財には限りがあるのに、右丞はそれを取り尽くそうとする。毎日毛を刈る患いにならぬか」と述べ、世栄は答えられなかった。
  • 御史中丞の崔彧もまた世栄を宰相にすべきでないと極言した。帝は大いに怒って彧を吏に下し法で処断しようとしたが、まもなく罷免にとどめた。
  • 鈔法とは、中統二年に王文統が中統元宝交鈔の発行を請い、十文から二貫文まで十等に分け、年月を限らず諸路で通用させ、賦税でも受け取らせたもので、交鈔法と呼ばれた。

至元二十二年二月(1285年)

  • 規措所を設けた。
  • はじめ盧世栄は、天下の年課は鈔九十万余だが、自分が計画すれば民から取らずに三百万まで増やせると述べた。実行前から内外の非難が起こったため、御史台・枢密院と帝の面前で議論したうえで実行したいと請うたが、帝は「その必要はない。卿はただ述べよ」と言った。
  • そこで世栄は次のように述べた。王文統以後、鈔法は空洞化して久しいので、銅を集めて銭を鋳造し、あわせて綾券を作って鈔と併用すべきである。泉州・杭州の二州に市舶転運司を置き、民に銭を貸して諸蕃と交易させ、利は官が七、民が三を取るべきである。各路に常平倉があるが名ばかりで実がないので、権門豪族が独占する鉄冶を取り上げて器を鋳造して売り、その利で穀を蓄えて平糶すれば、物価を均して厚利も得られる。民間の酒課が軽すぎるので、官が鈔を給して古の榷酤の法を行い、民間の密造を禁じ、米一石につき鈔十貫を取れば二十倍になる。国家は兵で天下を得たが、糧食ではなく羊馬に頼ってきたので、上都・隆興などの路で幣帛を買って羊馬と替え、蒙古人を選んで牧させ、毎年その皮毛・筋角・酥酪を収めて十分の二を牧者に与え、馬は軍事に、羊は下賜に充てるべきである——と。帝はいずれも善しとして実行した。
  • ここに至って規措所の設置を請い、その官吏には商才のある者を充てるとした。帝が「これは何の職か」と問うと、世栄は「銭穀を計画するだけです」と答え、許された。
  • また世栄は「天下で銭穀を運用できる者は阿哈瑪特に用いられていた者ばかりで、今はみな汚職として追放されている。臣は選んで用いたいが、臣の私心だと言われるのが恐ろしい」と述べた。帝は「そんなことを気にする必要はない。使える者を使え」と言い、こうして多くの者が登用された。

至元二十二年三月(1285年)

  • 真定などの路に宣慰司を置き、都転運司を兼ねて課程を管掌させた。盧世栄が、真定・済南・太原・甘粛・江西・江淮・湖広などに宣慰司を置いて都転運司を兼ねさせ課程を治めさせること、あわせて条例を厳しく定めて諸司が検察を妨げられぬようにすることを請うたのである。
  • 宣徳の王好礼をあわせて浙西宣慰使とした。帝が「宣徳は悪評が多い」と言うと、世栄は「本人が年に鈔七十余万錠を調達できると申し出たので用います」と答えた。

至元二十二年四月(1285年)

  • 監察御史の陳天祥が中書右丞・盧世栄の罪悪を弾劾した。
  • 世栄は中書にあること数か月、専任を恃んで憚るところがなく、丞相を軽んじた。左司郎中の周戭が議事でわずかに異を唱えると、詔旨を妨げたと誣告して奏上し、杖百のうえ斬らせた。朝廷は震え上がり、あえて口を開く者がなかった。
  • ここに至って天祥が上疏した。世栄は江西榷茶転運使であったころ、たびたび数万に及ぶ贓罪を犯した。今も改めず、狂悖はいよいよ甚だしい。丞の職にありながら実は大政を専らにし、苛酷を恣にして激しく取り立て、一年の期間で十年分の蓄えを作ろうとしている。その行いを調べると言葉と合っていない。はじめ鈔法を旧に復せると言ったが鈔はいよいよ空虚になり、物価を安くできると言ったが物価はいよいよ高くなり、民から取らずに課程を三百万錠増やせると言ったが、今や諸路の官司を脅して数字を水増しさせている。することなすことすべて民を煩わせるもので、早く改めなければ自滅を待つほかない。それは虫が自ら死ぬようなもので、本体の病は深いのだ——と。
  • 上疏が奏聞されると、丞相以下に合議で罪を問うよう詔し、世栄と天祥をともに上都へ召した。御史中丞の阿拉克特穆爾らが世栄の自白した罪状を奏上し、世栄は帝の前で一つひとつ認めた。帝は安図と諸省臣に、世栄の施策のうち廃すべきは廃し改めるべきは改めよ、用いた人で実際に罪のない者は朕が自ら裁くと詔した。

至元二十二年九月(1285年)

  • 榷酤を廃した。もともと民間の酒は自家醸造に任せ、米一石につき官が鈔一貫を取っていたが、盧世栄は官鈔五万錠で榷酤の法を立て、米一石につき鈔十貫を取って旧の十倍に増やしていた。ここに至って廃し、民の自家醸造に任せた。

至元二十二年十一月(1285年)

  • 盧世栄が処刑された。世栄は利を説いて出世したが、太子は深く非とし、「財は天から降るものではない。どうして毎年増やし続けられようか」と述べた。僧格はもともと世栄を後押ししていたが、太子の言を聞いて黙し、救おうとしなかった。こうして世栄はついに誅された。
  • 当時、帝は高齢で、南台の御史に内禅を請う上書をした者がいた。台臣はその章を隠して奏聞しなかったが、阿哈瑪特の一党である特済格・克実克らが、百司の吏の文書を押収して天下の銭穀を調査し、それに乗じて暴こうとした。都事の尚文は「これは上は太子を危うくし下は大臣を陥れようとするもので、その謀は奸悪だ」と述べ、御史大夫と丞相に語って先に奏上させ、その謀を封じた。帝は激怒して「汝らに罪はないのか」と言い、丞相は進み出て「臣らに逃れる罪はございません。ただ、この者たちは刑書に名の載る身でありながらこの挙に出たのであり、実に人心を揺るがすものです」と述べた。太子はこれを聞き、ついに憂懼のうちに没した。

至元二十三年秋七月(1286年)

  • 左丞相の翁吉喇特と平章政事の阿必実克の官を免じた。総制使院の僧格の言によるものである。
  • 僧格は狡猾かつ横暴で財利を説くことを好み、帝は深く気に入っていた。盧世栄が誅されると、帝は僧格を大任に就ける意向を持ち、省臣の姓名を書き出させたうえで、「安図・郭祐・楊居寛らは前職のままとする。翁吉喇特らは別に議し、代わりうる者を選んで報告せよ」と述べ、罷免した。これ以後、朝廷の設置や人材の進退に僧格が関与するようになった。

至元二十四年閏二月(1287年)

  • 尚書省を復置し、僧格と特穆爾をともに平章政事、諤爾根薩里を右丞、葉李を左丞、馬紹を参知政事とした。
  • 当時、敏珠爾多卜丹が、制国用使司を尚書省に改めてかなりの成果があったので、やはり両省に分けるのがよいと述べ、詔によりこれに従った。安図は「臣の力では天を回らせることはできませんが、せめて僧格を用いず別に賢者を選んでいただきたい。そうすれば民を虐げ国を誤るには至らぬかもしれません」と諫めたが、聞き入れられなかった。

至元二十四年三月(1287年)

  • 至元鈔を発行した。僧格は、交鈔および中統元宝が長く流通して物が重く鈔が軽くなったとして、至元鈔を新たに造ることを建議した。一貫から五十文まで十一等とし、一貫を中統鈔五貫に相当させた。

至元二十四年十一月(1287年)

  • 僧格を尚書右丞相、諤爾根薩里を平章政事、葉李を右丞、馬紹を左丞とした。
  • はじめ僧格は詔を奉じて中書省を監査し、鈔六十余錠の欠損を摘発した。参知政事の楊居寛はひそかに、自分は銓選を担当しており銭糧は専管でないと弁明したが、僧格は怒って左右に頬を打たせ、居寛は郭祐とともに罪を認めた。奏聞されると帝は丞相の安図に合議させたが、「この輩は狡猾だ。後日、脅されて誣告に服したなどと言わせてはならぬ」とされ、これにより祐と居寛はともに市中で処刑され家財を没収された。人々はみな冤罪だとした。
  • 当時、江寧県達嚕噶斉の呉徳という者が憤って「尚書省は今日、中書を余すところなく摘発しているが、後日また中書に摘発されるだろう。お前たちだけが死なずに済むものか」と述べた。ある者が僧格に告げ、僧格はただちに徳を捕らえて殺した。
  • まもなく帝が翰林の諸臣に、丞相が尚書省の事を領した例が漢唐にあるかと問うと、みな「ございます」と答えた。左丞の葉李はすかさず「前の省臣にできなかったことを、僧格は挙げて実行しました。丞相とすべきです」と述べ、こうして僧格に尚書右丞相を授け、李を右丞に進めた。

二十二年冬十月

  • 使者を遣わして諸路の銭穀を調査させた(この記事は前後の年次から見て至元二十五年ごろの事とみられる)。
  • はじめ僧格は六部に委任して百司の倉庫の財穀を調査させたが、責任が専らでないとして徴理司を置いてこれに当たらせた。当時、監査が行われると倉庫や銭穀を扱う者は破産しない者がなく、交代の時期になると人々は家を棄てて逃れた。
  • 僧格はまた、湖広の銭穀はすでに平章の約蘇穆爾に賠償させたが、他省で欺き盗む者も多いはずだとして、参知政事の錫都ら十二人に江淮・江西・福建・四川・甘粛・安西の六省の欠損を調査させ、護衛の兵を付けるよう請い、詔によりいずれも容れられた。

十一月

  • 僧格の徳政碑を立てた。当時は天下が騒然とし、とくに江淮が甚だしかったが、讒佞の徒はかえって石を立てて僧格の徳を頌えようと請うた。帝は「民が立てたいなら立てさせよ。僧格にも告げて喜ばせよ」と述べた。碑が完成すると尚書省の前に建て、「王公輔政之碑」と題した。
  • 当時、董文用は御史中丞であったが一人だけ僧格に付かなかった。僧格は人を遣わして自分の功徳を頌えさせようとしたが文用は答えず、自ら「百官はみな丞相府で食事をしている」と言っても答えなかった。
  • 折しも朔方で軍が起こって徴発が急になると、文用は「民はもう限界だ。外の難がまだ除かれぬのに内でその根本を傷つけている。丞相はよく考えられよ」と述べ、郡国から上がった盗賊の報告を手にして「百姓は安楽を望まぬわけではない。法を急にし苛酷に取り立てるからこうなるのだ。御史台は時政の及ばぬところを救うためにある。丞相はこれを助けるべきで、抑えるべきではない」と言った。僧格はいよいよ恨み、日々台の事をあげつらって帝に讒言し、文用は頑迷傲慢で法を妨げると述べて罪に落とそうとした。帝は「それが御史の職だ。何の罪があろう」と述べた。

至元二十六年十二月(1289年)

  • 紹興路総管府判官の白絜矩が、宋の宗室が江南に居るのは都合が悪いのですべて京師へ移すべきだと述べた。僧格が奏上して絜矩を尚書省舎人に抜擢し、江南へ遣わして兼併の戸を摘発させ、宋の宗室とともに京師へ送らせた。まもなく江淮行省が、江南の民は課税増徴・民の調査・馬の徴発に苦しんでおり、今この挙に出れば必ず人心が動揺するとして中止を求め、容れられた。
  • 当時、僧格が政を専らにして法令が苛烈になり四方が騒然としていたので、程鉅夫が入朝して上疏した。その論旨は次のとおりである。天子の職で宰相を選ぶことより大きなものはなく、宰相の職で賢者を進めることより大きなものはない。賢者を進めるのを急務とせず、ただ財を殖やすことばかり心がけるのは、上のために徳を成し下のために民を思う本意ではない。かつて漢の文帝が裁判と銭穀について丞相の周勃に問い、勃が答えられなかったとき、陳平は「裁判は廷尉に、銭穀は治粟内史にお尋ねください。宰相は上は陰陽を理め、下は万物の宜しきを遂げさせ、外は四夷を鎮撫し、内は百姓を親しませるものです」と進言した。その言葉から宰相の職が分かる。今は権奸が事を執り、尚書省を立てて銭穀を調査し、生民を搾り取ることを務めとし、任用する者はみな貪欲で利を求める人物ばかりだ。江南で盗賊がひそかに起こるのはまさにこのためである。尚書の政を清め、行省の権を減らし、利を説く官を廃して民を憐れむ政を行うのが国のためによい——と。僧格は大いに怒り、鉅夫を京師に留めて帰さず、殺すよう六度も奏請したが、帝は許さなかった。

至元二十七年八月(1290年)

  • 朔日に日食があり、大地が激しく揺れた。武平がとくに甚だしかった。

至元二十七年九月(1290年)

  • 武平でふたたび大地震があり、地が陥没して黒い砂と水が噴き出し、官署四百八十間が壊れ、民家の被害は数えきれず、圧死・溺死・負傷した者は数十万に及んだ。
  • 帝は深く憂え、当時は龍虎台に滞在していたが、阿哩衮薩里を遣わして集賢院・翰林院両院の官を召集し、災いの原因を問わせた。議する者は僧格を恐れ、経伝や五行災異の言を漠然と引くばかりで、時政を指摘する者はいなかった。
  • 当時、僧格は錫都・王巨済らを遣わして天下の銭穀を調査させており、すでに徴収した分の赦免が百万、未徴収分がなお数千万に上り、民は生きるすべを失って自殺する者が相次ぎ、山林へ逃げれば兵を出して捕らえていた。
  • そこで集賢直学士の趙孟頫が阿哩衮薩里を通じて帝に奏し、詔を下して免除すれば天変も鎮められようと述べ、帝はこれに従った。詔の草案ができると僧格は怒って「これは帝の意ではあるまい」と言った。孟頫は「未徴収の銭穀については、その者がすでに死に絶えており、どこから取るというのですか。今のうちに免除しなければ、後日、諫言する者が数千万の銭穀を失った咎を尚書省に帰したとき、丞相の大きな累となりませんか」と述べた。僧格は悟り、そこで天下に赦を行い、民はようやく少し息をついた。

至元二十八年春正月(1291年)

  • 僧格および鄂爾根薩里らが罪により免職となった。
  • これより先、帝は趙孟頫に葉李と留夢炎の優劣を問うたことがある。孟頫は「夢炎は臣の父の友人で、重厚で自信に篤く、よく謀りよく決断し、大臣の器があります。葉李の読んだ書は臣もみな読んでおり、その知るところ能くするところは臣もみな知り能くします」と答えた。帝が「汝は夢炎が李より賢いと言うのか。夢炎は宋で状元となり丞相まで昇ったが、賈似道が国を誤り上を欺いたとき阿諛して取り入った。李は布衣の身で宮闕に伏して上書した。これは夢炎より賢いということだ」と述べた。
  • 孟頫は退出して奉御の徹爾に「上は賈似道の国を誤ったことを論じて留夢炎を責められたが、僧格の罪は似道より甚だしいのに口にされない。我々が言わなければ後日どう責めを逃れよう。しかし私は疎遠な臣で、言っても聞かれまい。侍臣のうち書を読んで義理を知り、慷慨として大節があり、しかも上に親しく信任されている者は公に及ぶ者がない。一日の命を捨てて万民のために残賊を除くのは仁者の事だ。公はぜひ励まれよ」と語った。
  • 帝が漷北で狩りをしていたとき、徹爾は機を見て奏し、その言葉は激烈だった。帝は怒り、大臣を誹謗するものだとして衛士に頬を打たせ、血が口と鼻から噴き出して地に倒れ伏した。しばらくして再び呼んで問うと、いよいよ強く弁じて「臣は僧格と恨みはございません。それでも身を顧みず力を尽くしてその罪を数えるのは、まさに国家のためを思えばこそです。もし聖怒を畏れて申さなければ、奸臣はいつ除かれ、民の害はいつ止むのですか」と述べた。
  • 帝は大いに悟り、博果密を召して問うた。博果密は「僧格は聖聡を覆い隠し朝政を乱し、諫める者があればすぐに誣告して殺します。今や百姓は生業を失い盗賊が蜂起し、乱は朝夕に迫っております。急ぎ誅さなければ陛下の憂いとなりましょう」と答えた。
  • そのころ廷臣で発言する者がいよいよ増え、詔により台と省が僧格と論弁し、僧格は言葉に窮した。帝は「僧格の悪事は始終四年に及ぶ。台臣が知らぬはずがない。知りながら言わなかったのはどんな罪に当たるか」と問い、御史の杜思敬が「官を奪い俸を追徴するなど、上の裁量のままに」と答えた。そこで長く在職していた台臣を罷免し、僧格らの官を免じ、徹爾に衛士三百人を率いて僧格の家を没収させると、珍宝は内蔵の半ばに及んだ。阿哩衮薩里も連座して家財を没収された。

至元二十八年二月(1291年)

  • 徴理司を廃した。詔が下った日、百姓は互いに祝ったが、各路の調査はなお全廃されていなかった。その後、御史が「銭穀の調査は中統から今まで三十年余、阿哈瑪特・僧格が国政を執って手法は極まり、その一党は公然と賄賂を取り、民は堪えられない。廃するに越したことはない」と述べ、詔によりこれに従った。
  • あわせて、滞納の銭穀に関する文書を一室に集めて置き、上命によらずひそかに閲覧した者は処罰するよう命じた。
  • もともと僧格が楊居寛・郭祐を殺そうとしたとき、刑部尚書の博果密が争ったが容れられなかった。僧格は深く忌んで妻に「後日わしの家を没収するのは必ずこの男だ」と語り、退庁したのを「役所で執務しない」と咎めて罪に落とそうとしたので、病と称して免職となっていた。
  • ここに至って帝は博果密を宰相に用いようとして「朕は誤って僧格の言を聞き入れ、天下を不安にした。今悔いてももう及ばぬ。朕は卿の幼いころを知り、学ばせて政に従わせたのは今日の用に備えるためだ」と述べた。博果密は「朝廷には勲旧で爵位が臣の上にある者がまだ多くおります。今、順を越えて臣を用いても衆を服させられません」と答えた。帝が「では誰がよいか」と問うと、「太子詹事の旺扎勒がよろしいでしょう。かつて阿哈瑪特の家を没収したとき、近臣への贈賄はすべて帳簿に載っておりましたが、旺扎勒の名だけがありませんでした。また、僧格が宰相になれば必ず国事を誤ると言っており、果たしてそのとおりになりました。それゆえ適任と存じます」と答えた。そこで旺扎勒を右丞相、博果密を平章政事に任じた。

至元二十八年三月(1291年)

  • 僧格の輔政碑を倒した。もともと帝は翰林学士の閻復に碑文を撰させていたが、復はこのとき廉訪使に転じており、これにも連座して免職となった。

至元二十八年夏四月(1291年)

  • 中書省の臣・敏珠爾丹と崔彧が、僧格が国政を執った四年間、内外の百官で賄賂によって職を得なかった者はまれで、兄弟・旧知・親族はみな要職と美地を授かり、ひたすら朝廷を欺き百姓を搾ることを事としていたとして、両省に厳しく審査させ、その一党に加わった者はすべて除名して民とするよう請い、容れられた。
  • 湖広平章政事の約蘇穆爾は僧格の妻の一族で、とりわけ不法が甚だしかった。京師へ召し寄せて家財を没収すると黄金は四千両に達した。そこで詔により僧格を獄に下し、あらためて約蘇穆爾を捕らえて湖広へ戻して誅した。
  • もともと約蘇穆爾は、湖広が帰属した当初、郡県の長吏や胥吏・富人が家ごとに銀を集めて官に納めようとし、銀は用意されたが事が中止になったという者の言を受け、民に自己申告を命じた。使者が入り乱れ、各地に獄を設けて連座が際限なく広がり、極めて惨酷であった。拷問や獄死で死んだ民が路に満ち、得たものは計り知れなかったが、約蘇穆爾はすべて自分のものにした。
  • 使者が永州に至ったとき、判官の烏克遜が遠回しに利害を説いて、ついに何の煩わしさも起こさせなかった。その後、調査が日ごとに厳しくなり天下が騒然とすると、「民はもう命令に堪えられぬ」と嘆じ、その日のうちに行省へ報告した。約蘇穆爾は怒って「郡国の銭糧はどこも上積みされているのに、永州だけがそうでないのはどういうわけだ。これは孫府判が弁才を恃んで私を侮っているのだ」と言い、ただちに拘禁して死に至らしめようとしたが、僧格の失脚によってようやく釈放された。

至元二十八年秋七月(1291年)

  • 揚州路学正の李淦が上言し、葉李はもと入墨の刑を受けた徒でありながら、帝に知られるや僧格を推挙することを第一の仕事とし、そのために罪なき大臣が誅され貶められ、使者が四方に出て銭穀を調査し、民が怨んで盗賊が起こり、天が怒って地震と水害が相次いだ、人々は僧格が小人どもを用いた罪は知っているが、葉李が妄りに僧格を推挙した罪を知らない、葉李を斬って天下に謝すべきだと述べた。
  • 淦を京師へ召して弁明させたが、淦が着いたときには李は没していた。淦を江陰路教授に任じて直言を旌表した。
  • 行台御史の周祚の妻子を返した。祚はかつて僧格を弾劾して噶達蘇へ流され、妻子と家財を官に没収されていたが、ここに至って返されたのである。
  • 同月、僧格が処刑された。

至元二十九年三月(1292年)

  • 僧格の一党である尼雅斯拉鼎らを誅した。
  • 僧格の失脚後、尼雅斯拉鼎・摩哩・錫都・王巨済らはみな捕らえられて獄に下されていた。ここに至って御史台が、彼らは僧格と並んで不法を恣にし、江南の銭穀の調査で極めて酷虐に振る舞い、民は妻を嫁がせ娘を売り、災いは親族や隣人にまで及び、揚州・銭塘の被害がとくに惨く、罪なくして死んだ者は五百余人に及ぶ、今三人はすでに罪に服したので、誅して天下に謝すべきだと述べた。
  • 帝は錫都が理財に長けているとして釈そうとしたが、博果密が強く反対し、正午までに七度も奏して、ついにあわせて誅した。
  • 当時、敏珠爾多卜丹が尚書省を復置して右の三部を専管させるよう請うたが、博果密は「阿哈瑪特と僧格が相次いで国を誤り、身は誅され家は滅びた。前車の戒めはまだ遠くない。どうしてまたそれに倣おうとするのか」と述べ、この件は取りやめとなった。

至元二十九年五月(1292年)

  • 中書省の臣が、妄人の馮子振がかつて詩を作って僧格を頌え、僧格が失脚すると詞臣に碑の撰述を告げて引用が不適切だったと言い立て、国史院編修の陳孚がその奸状を暴いた、と述べた。帝は「詞臣に何の罪があろう。僧格を頌えたことを罪とするなら、朝廷の諸臣で頌えなかった者があろうか。朕もかつて頌えたことがある」と述べた。
  • 同月、楊居寛と郭祐の死は罪によるものではないとして、その家財を返すよう詔した。

成宗元順元年五月(1295年)

  • 省臣が、阿哈瑪特と僧格が権勢を恃んで官を売り、賢愚を区別しなかったために銓選の法が壊れたと述べ、詔により敏珠爾多卜丹と何栄祖らにこれを是正させた。