元史紀事本末江南の群盗を平定する(江南羣盜之平)

南宋平定後の江南各地で相次いだ蜂起を、元朝が二十年近くかけて鎮めていく経過。漳州の陳桂龍・建寧の黄華に始まり、循州の鍾明亮が降っては叛くのを繰り返し、高興・雲丹密実・布琳済達らが討伐にあたった。王惲や葉季らは官吏の苛政と軍官の腐敗こそ乱の根だと説き、鎮守軍の配置替えや良吏の登用が図られた。至元十七年(1280年)から成宗元貞二年(1296年)の劉六十の乱平定までの十七年間。

年表(13件)

世祖至元十七年十二月(1280年)

  • 漳州の民・陳桂龍が挙兵し、福建都元帥の旺扎勒圖らがこれを撃退した。
  • 桂龍と甥の陳弔眼は数万の衆を擁して高安砦に拠り、朝廷は旺扎勒圖と副帥の高興に討伐を命じた。
  • 当時は建寧の賊・黄華の勢いがとくに盛んで、旺扎勒圖がまず兵を進めて境に迫ると、華は恐れて降伏を乞うた。旺扎勒圖は華を副元帥とするよう奏上し、軍の行動はすべて華に相談した。
  • 桂龍らは高所の険を頼んで防いだ。高興は兵に薪の束を担がせて中腹まで登らせては捨てて退くことを六日続け、敵の矢石を尽きさせたうえで薪に火を放って山を焼き、二万の首を斬った。桂龍は畬洞へ逃げ込んだ。

十九年夏四月(1282年)

  • 陳桂龍が降伏した。桂龍の逃亡後も陳弔眼が五十余の砦を連ねて抵抗していたが、高興らがこれを撃って斬り、桂龍らは一党を率いて降った。詔により桂龍は辺地へ流された。
  • 十二月、福州の叛賊・林天成を捕らえ、市中で処刑した。

二十年(1283年)

  • 三月、広州新会の林桂方・趙良鈐らが一万余を擁し、羅平国と号して延康の年号を称したが、捕らえられた。
  • 九月、象山県の海賊・尤宗祖らが徒党を集めて海上で略奪したが、哈喇台らが招降し、九千五百九十二人が帰順して海路が安定した。
  • 冬十月、建寧路総管の黄華が再び叛き、十万を集めて頭陀軍と号し、宋の祥興の年号を称して崇安・浦城などの諸県を破り、建寧を攻めた。詔により史弼らが急襲し、華は敗走して焼身し、残党も潰滅した。

二十一年(1284年)

  • 二月、漳州で盗賊が起こり、邕州・賓州・梧州・韶州・衡州の民である黄大成らが次々と乱に加わったため、湖南宣慰使の色勒敏に討伐を命じた。
  • 宋の宗室および官途にある大臣を内地へ移すよう詔した。当時、荊湖・閩広の間では毎年のように兵乱が絶えず、江南に住む宋の宗室が謀反を企てているとの訴えがあり、使者を派して捕らえようとした。宿衛士の諤爾根薩里が「江南は平定されたばかりで人心は定まっていない。宗室の謀反は郡県の報告ではなく一人の風説にすぎず、それで捕縛すれば人々が自ら危ぶむことになる」と諫め、帝は悟って使者を呼び戻し、この詔を出した。
  • 十一月、江西行省参知政事の雲丹密実が海賊の黎徳を捕らえ、残党百三十三人を招降した。現地で黎徳を誅して見せしめとし、弟の黎浩と偽の招討・呉興らは檻送して京師へ送った。

二十二年(1285年)

  • 二月、広東宣慰使の雲丹密実が潮州・恵州二州の盗賊・郭逢貴ら四十五寨を討ち、民一万余戸・兵三千六百十人を降した。捕らえた逢貴らを連れて参内し直接事情を述べたいと願い出て、許された。
  • 秋七月に京師へ至り、降った山寨は百五十余か所に及ぶと報告した。帝が「戦った末の降伏か、招いてすぐ降ったのか」と問うと、「先頭で抵抗した者はすでに処刑した。残りはみな招降に応じた者です」と答えた。あわせて、大軍が去ったあと民を撫治せず州県の官も赴任しないため、盗賊が土地に割拠して互いに殺し合い民が減っていると述べ、良吏を選んで治めさせるよう進言し、容れられた。

二十三年(1286年)

  • 春正月、西州の趙和尚が宋の福王の子・広王と自称して民を惑わし乱を企て、処刑された。
  • 八月、婺州永康県の民・陳巽四らが謀反を企て、処刑された。
  • 十一月、盗賊を鎮める策が議された。僧格・伊蘇特穆爾は「江南が帰属して十年経つのに盗賊が絶えない。期限を切って招捕を命じ、民の安定は州県の吏の責任として、できない者は罷免すべきだ」と述べた。葉季は「漳州に十年いて事情を知っているが、利を貪って賊と通じる軍官がいちばん厄介だ。各地の鎮守軍官を三年ごとに転任させればこの弊は改まる」と述べ、帝はいずれも採用した。あわせて江西行省平章の呼図克特穆爾に広東などの盗賊討伐の監督を命じた。

二十五年夏四月(1288年)

  • 広東の民・董賢挙、浙江の民・楊鎮龍・柳世英、循州の民・鍾明亮がそれぞれ一万余を擁して相次いで挙兵し、みな「大老」と称した。とくに明亮の勢いが激しく、江西行省丞相の蒙固岱と行枢密院副使の雲丹密実に四省の兵を発して討たせた。明亮は幾度も降っては叛いた。
  • 福建按察使の王惲が上疏し、福建は五十余の郡県が山海に接する辺境の要地であり、宋平定以来の官吏の苛政ゆえに民が結集する。討伐軍がまた踏み荒らすのは一視同仁の趣旨に背く。帰属した民は百万戸近くあったが黄華の乱で四、五割を失った。今の明亮の勢いは黄華以上で、並の草賊とは見なせない。精兵を選び号令を明らかにして計略で取らねば禍は止まないと述べた。
  • 御史大夫の伊嚕勒も、江南の盗賊は四百余か所に及ぶので将を選んで討つべきだと述べた。帝は「雲丹密実がしばしば勝報を寄せており、蒙固岱もすでに向かった。案ずるには及ばない」と答えた。

二十六年(1289年)

  • 夏四月、江南の民が弓矢を携えることを禁じ、犯した者は兵籍に編入した。
  • 五月、鍾明亮が一万八千五百七十三人を率いて降った。
  • 六月、雲丹密実が、降った明亮を循州知州、宋士賢を梅州判官、丘応祥ら十八人を県尹・巡尉に任じたいと請うたが、帝は許さず、明亮と応祥を都へ出頭させるよう命じた。
  • 冬十月、雲丹密実が丘応祥・董賢挙を京師へ送った。丙戌の日、明亮が再び叛いて一万の衆で梅州を襲い、江羅らは八千で漳州を襲い、韶州・雄州など二十余か所の賊も呼応して勢いが盛んになった。詔により雲丹密実は福建・江西の省軍と合わせて討つこととなり、あわせて帝は「明亮が降ったとき朝廷へ送れと命じたのに、汝が怠って送らなかったからこの変が起きた。今後は降った賊はただちに送れ」と諭した。
  • 同月、婺州の賊・葉万五が一万の衆で武義県を襲い千戸一人を殺したため、江淮省平章の布琳済達が討伐に向かった。
  • 十一月、漳州の賊・陳機察ら八千人が龍巌を襲って千戸の張武義を捕らえ、楓林の賊と合流したが、福建行省の兵が大破した。陳機察・邱大老・張順らが一党とともに降ると、行省は見せしめに斬るよう請うた。枢密院の議で范文虎が「賊は本来斬るべきだが、降ったあとで殺しては信を示せない。まとめて朝廷へ送るべきだ」と述べ、これに従った。

二十七年(1290年)

  • 春正月、江西の賊・華大老、黄大老らが楽昌など諸郡を掠め、行枢密院が討ち平らげた。
  • 三月、建昌の賊・邱元らが大老と称して千余人を集め南豊など諸郡を掠め、太平県の賊・葉大五は百余人で寧国を襲ったが、いずれも捕らえて斬った。
  • 五月、雲丹密実が江西行省の管如徳と合わせて明亮を討ち、降伏させた。詔により縛って朝廷へ送るはずが、如徳は明亮らを留めて送らず、明亮はまた衆を率いて贛州を襲った。
  • 六月、徽州績渓の賊・胡発・饒必成、杭州の賊・唐珎、建平の賊・王静照、蕪湖の賊・徐汝安・孫惟俊らがみな処刑された。
  • 十一月、江淮行省平章の布琳済達が、福建の盗賊は平定したが浙東一道は辺地の要害で賊の巣窟だと述べ、当初巴延らが各路に軍を置いて地の軽重に応じ兵数を配していたのを蒙固岱が改めてしまったので、三万戸を戻して分屯させるべきだと進言した。あわせて、大江を跨いで人口の多い揚州・建康・鎮江の三城に万戸府七、行省の諸司や府庫のある杭州に万戸府四を置き、沿海沿江の要害二十二か所に戦艦を増置して水戦を訓練するよう請い、容れられた。
  • 同月、興化路仙遊の賊・朱三十五が青山を襲い、処州青田の賊・劉甲乙らが一万余を集めて温州平陽を襲った。

二十八年秋七月(1291年)

  • 哈克繖を総兵として派遣し、江南の盗賊を討ち平らげた。

二十九年(1292年)

  • 春正月、江南で戦乱を避けて逃れた者を本業に復帰させるよう詔した。
  • 九月、治書侍御史の裴居安が、雲丹密実は盗賊が起きても即座に兵を出さず、賊が去ってから平民を誅していると述べ、詔により御史台と行院が官を遣わして共同で取り調べた。

三十年二月(1293年)

  • 江西行院の雲丹密実が、江南の豪族が盗賊をかくまうことが多いので首謀者を誅し残りは内地の県へ移すべきだと述べ、容れられた。

成宗元貞二年冬十月(1296年)

  • 贛州の民・劉六十が一万余を集めて名号を立てた。朝廷が派した将は様子見で進まず、賊の勢いは増した。
  • 江南行省左丞の董士選が自ら赴くことを願い出て、興国まで進み賊の営から百里の地に至った。将校に分担して地を守らせ、乱を煽った者をすべて処断し、さらに賊をかくまった悪質な民を誅した。これにより民は争って協力を申し出、数日で六十は捕らえられ残党も散った。
  • 事が終わると士選は使者を送って上奏したが、贓吏数人の罷免を請うただけで、賊を破ったことにはほとんど触れなかった。当時の人はその功を誇らぬ態度を称えた。