元史卷二百八 外夷傳第九十五 耽羅

耽羅

  • 耽羅は髙麗の与国である。世祖が高麗を服属させた後、耽羅を南宋・日本への衝要とみて注意を払った。至元6年7月、明威将軍都統領多托爾・武徳将軍統領王国昌・武畧将軍副統領劉傑を遣わし耽羅等処の道路を視察させ、髙麗国王王禃に官を選んで導送させた。当時、髙麗の叛賊林衍の余党金通精が耽羅に逃げ込んでいた。
  • 9年、中書省臣・樞密院臣は「まず日本に事があると逆順の情がわからず後患の恐れがある、まず耽羅を平定し日本の帰趨を観るべき」と議し、耽羅国王がかつて来朝したのに叛賊がその主を逐い城に拠って乱を為したことも討伐の理由とした。10年正月、経畧使実都・史樞・洪茶丘らに兵船大小108艘で耽羅の賊党討伐を命じ、6月に平定した。その地に耽羅国招討司を立て屯鎮辺軍1700人を置き、貢賦として毎年毛施布100匹を進めた。招討司は後に軍民都達嚕噶齊総管府と改められ、さらに軍民安撫司と改められた。
  • 31年、高麗王が上言し、耽羅の地は祖宗以来その国に臣属しており、林衍逆党の平定後、尹邦寳が招討副使として朝廷に直隷することを求めたが本来通りに戻すことを乞うたところ、帝は「これは小事である、髙麗に還属させよ」と答え、以後は再び髙麗に隷することとなった。