元史卷二百二 列傳第八十九 釋老

釋老伝の趣旨

  • 釈教・道教が中国で行われて千数百年、その盛衰は常に時の君主の好悪によった。仏教は晋・宋・梁・陳で、黄老(道教)は漢・魏・唐・宋でそれぞれ効験があった。
  • 元が興ってからは釈氏を崇尚し、帝師の勢威は古今に類を見ないほど盛んであった。道家の方士の流れも祈祷の説を借りて時勢に乗じたが、帝師の勢いの十分の一にも及ばなかった。宋の旧史がかつて老釈を志として立てたのに倣い、その意を汲んで釈老伝を作る。

帝師帕克斯巴(パクパ)

  • 土番薩斯嘉の人、克兖氏。祖父の多爾濟以来その法をもって国主を助け西海を制すること十余世に及んだ。パクパは七歳で経典数十万言を誦し、大義を約めて理解できたため国人は聖童と呼び、これが名の由来となった。やや長じて五明(仏教の学問体系)を修め、巴喇密特とも称された。癸丑年、十五歳で潜邸の世祖に謁見し、語り合って大いに悦ばれ、日々親しく礼遇された。
  • 中統元年(1260年)、世祖即位に伴い国師に尊せられ玉印を授かり、蒙古新字の制作を命じられた。字数は千余り、母字四十一からなり、字を結ぶ韻関の法と、二合三合四合により字を作る語韻の法があり、要は諧声(音による表記)を宗とするものであった。至元六年(1269年)、天下に頒布する詔が出され、詔には「字は言を書き、言は事を記す古今の通制である。我が国家は朔方に基を開き、簡素な習俗のため文字制作が及ばず、漢字と輝和爾(ウイグル)字を用いてきた。遼金など諸国はそれぞれ独自の字を持つが、我が国には未だ整備された文字がない。国師パクパに命じて蒙古新字を創らせ、一切の文字を訳写して言葉を順に事を達せしめる。今後璽書を頒下する際は蒙古新字を用い、なお各国字を副える」とあった。パクパは大宝法王の号を進め玉印を賜った。至元十一年(1274年)、西方への帰還を願い出たが留められ、弟の琳沁が跡を嗣いだ。十六年(1279年)、パクパは没し、訃報が達すると賻贈が加えられ「皇天の下、一人の上、宣文輔治大聖至徳普覚真智佑国如意大宝法王西天仏子大元帝師」の号を賜った。至治年間(1321〜1323年)には郡県に廟を建て祀ることが特に詔された。泰定元年(1324年)その像を十一幅描かせ各行省に頒布し塑像を作らせた。
  • 帝師の継承:琳沁が嗣いで六年、至元十六年(1279年)卒。達爾瑪巴拉実哩が嗣ぎ、二十三年(1286年)卒。伊特扎実琳沁が嗣ぎ、三十一年(1294年)卒。策喇実巴鄂爾嘉勒が嗣ぎ、成宗は特に宝玉五方仏冠を作らせ賜った。元貞元年(1295年)双龍盤紐白玉印を賜り、印文に「大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印」と刻まれた。大徳七年(1303年)卒。翌年扎克嘉勒燦が嗣いだがその翌年卒。多爾済巴勒が嗣ぎ皇慶二年(1313年)卒。桑嘉依扎実が嗣ぎ延祐元年(1314年)卒。翌二年(1315年)衮噶諾爾布喇実嘉勒燦巴勒藏布が嗣ぎ、至治三年(1323年)卒。班珠爾戩藏が嗣ぎ泰定二年(1325年)卒。衮噶伊実巴絧喇実嘉勒燦巴勒藏布が嗣ぎ、玉印を賜り璽書を降して天下に諭したが、その年に卒。天暦二年(1329年)扎克策喇実が嗣いだ。

丹巴(ダンバ)

  • パクパの時代、国師丹巴(別名は衮扎克喇実)という西番托果斯塔瑪の人がいた。幼くして西天竺の果達木実哩から梵秘の法を学びその要を得た。中統間、帝師パクパの推薦を受けた。当時懐孟が大旱魃に見舞われ、世祖が丹巴に雨乞いを命じると雨が降り、また呪文を唱えた食を龍湫に投げると珍しい花や果実が波間から湧き出て献上され、世祖は大いに喜んだ。至元末、当時の宰相僧格に容れられず西方への帰還を強いられたが、再び召し戻され潮州へ左遷された。当時枢密副使頁特密実が潮州を鎮めており、その妻が奇病にかかった際、丹巴が携える数珠をその身に触れさせるとたちまち治った。また頁特密実のために不思議な夢の予言をし、後日その通りに帰朝の時期が的中した。元貞間(1295〜1297年)、海都が西番の境を犯した際、成宗はマハーカーラ神への祈祷を丹巴に命じ、まもなく捷報が届いた。成宗の病の平癒も祈って速やかに癒え、厚く賞賜され前導校尉十人を付けられた。成宗の北巡の際、丹巴は象輿で先導し雲州を通過する際、弟子たちに「この地には霊怪がいる、乗輿を驚かさぬよう密かに神呪を持して封じよ」と語り、まもなく大風雨があったが幄殿だけは無事であった。碧鈿の盃を賜った。大徳七年(1303年)夏に卒し、皇慶間(1312〜1313年)大覚普恵広照無上丹巴帝師と追号された。

必嚕匝納實哩(ビルザナシュリ)

  • のち必嚕匝納実哩という者もいた。初名は嘉勒斡蜜迪哩、北庭噶瑪拉国の人。幼くして輝和爾(ウイグル)語と西天の書に熟達し、長じて三蔵と諸国語に通暁した。大徳六年(1302年)、帝師の下で受戒し広寒殿で帝に代わり出家、今の名を賜った。皇慶中(1312〜1313年)諸梵経典の翻訳を命じられ、延祐間(1314〜1320年)銀印と光禄大夫を授かった。諸番からの朝貢の表文で誰も読めない文字があるとすべて彼が訳した。金に刻字した表文が進上された際、廷中で誰も判読できず愕然としたが、彼は案上の墨汁を金葉に塗って字を審らかにし、左右の者に筆を執らせ口授して表中の語や使者の姓名、貢物の数まで書き取らせた。翌日、有司が調べたところ物品と多重訳の書に少しの差異もなく、皆その博識に服し、その学識の由来を測りかねて神悟と言う者もあった。開府儀同三司、三台銀印を賜り、功徳使司事を兼領し廩餼を厚くして母を養えるようにされた。至治三年(1323年)金印を改賜し沙津阿古斉に特授、諸国引進使に任じられた。至順二年(1331年)玉印を賜り「普覚円明広照弘弁三蔵国師」の号を加えられたが、この年、安西王子伊嚕特穆爾らと共に謀反を企てたとして誅された。訳した経に、漢字では『楞厳経』、西天字では『大乗荘厳宝度経』『乾陀般若経』『大涅槃経』『称讃大乗功徳経』、西番字では『不思議禅観経』など若干巻がある。

帝師制度の弊害

  • 元は朔方より起こった当初から釈教を尊んでいたが、西域を得ると、その地が広く険しく民が獰猛で好戦的なため、その風俗に因んで柔らげようと考え、土番の地に郡県を置いて官を分け、帝師の下に宣政院を立てた。その次官の位には必ず僧が任じられ、帝師の推挙によった。内外を統轄する帥臣以下も僧俗併用され、軍民を統べたため、帝師の命は詔勅と併せて西土に行われた。百年の間、朝廷の敬礼と尊信は極まるところなく、帝后妃主に至るまで受戒によって膜拝し、正衙朝会の百官列班に帝師も座席を占めることがあった。皇帝即位の初めには必ず詔を降し章佩監に珠を連ねて字とした璽書を賜った。
  • 帝師の来朝に際しては中書大臣が駅伝で数百騎を連ねて迎え、供物を負担し送迎した。京師に着けば大府が法駕半仗を仮して先導し、省台院官以下百司庶府は皆銀鼠済遜(毛皮の礼服)を着した。毎年二月八日の迎仏の儀では礼部尚書・郎中が専ら督励した。帝師の没後、遺骨を帰葬する際も百官が郭外に出て祭餞した。大徳九年(1305年)には平章政事特穆爾を専ら遣わし駅伝で護送させ、賻金五百両・銀千両・幣帛万匹・鈔三千錠を贈った。皇慶二年(1313年)にはさらに賻金五千両、銀一万五千両、錦綺雑綵一万七千匹に加増された。帝師の昆弟子姓の往来にも有司が供給を絶やさなかった。泰定間、帝師の弟衮噶伊実戩が至るというので中書が羊酒を郊外で用意した。その兄索諾木藏布は公主を娶り白蘭王に封じられ金印と円符を給された。その弟子で司空・司徒・国公の号を受け金玉印章を佩びる者が前後相連なり、勢いを恃んで恣にふるまい、その害は四方に及んだ。
  • 嘉木揚喇勒智という者は世祖に江南釈教総統に任じられ、旧宋の趙氏諸陵で銭塘・紹興にあるもの、大臣の塚墓に至るまで百一所を発掘し、平民四人を殺害し、人から美女や宝物を無数に受け取り、盗み取った財物は金千七百両、銀六千八百両、玉帯九、玉器大小百十一、雑宝貝百五十二、大珠五十両、鈔十一万六千二百錠、田二万三千畝に及び、公賦を納めない私隠の民二万三千戸を庇護した。他にも隠匿し露見していないものは数えきれない。また至大元年(1308年)、上都開元寺の西僧が民の薪を強引に買い上げようとし、留守の李璧が訴えを受けて詢問すると、僧はその党を率いて棍棒を持ち公府に突入し、璧を引きずり倒し捶打しつつ連れ去り空室に閉じ込めた。璧は長く経ってようやく脱出し朝廷に訴えたが、恩赦にあって不問となった。二年(1309年)には僧の龔柯ら十八人が諸王哈喇巴爾の妃呼図克斉徳済と道を争って妃を車から落とし殴打するという犯上の事件が起きたが、詔して不問とされ、宣政院はさらに「民が西僧を殴った者はその手を切断し、罵った者はその舌を断つ」との令を奏請しようとしたが、仁宗が東宮にあってこれを聞き、その令を停止させた。
  • 泰定二年(1325年)、西台御史李昌の言によれば、平涼府・静会・定西等州を経由した際、西番僧が金字円符を帯びて絡繹と道を往来し、駅舎が数百騎を収容できないため民舎を強いて借り、男を追い立て女を犯す事態があり、奉元一路では正月から七月の間往来百八十五回、用いた馬は八百四十余匹で諸王行省の使者の十のうち六七を上回った。駅戸には訴える術もなく、台察も咎める術がなかった。円符は本来辺防の警報用であるのに僧人がこれを佩びるのはあってはならないと訴えたが、報われなかった。必嚕匝納実哩が誅された際、有司がその家を籍没すると、人畜土田・金銀貨貝銭幣・邸舎書画器玩、婦人の七宝装具に至るまで価値は巨万に上った。
  • 年中行事の祝釐・祈祷にもさまざまな名目があり、辰類阿索勒(慶讃)、斯満拉(薬師壇)、綽克絅(護城)、多爾沁(大施食)、多爾済埒克多爾(美妙金剛廻遮施食)、斉爾多克巴(廻遮)、隆科爾(風輪)、賛多爾(作施食)、楚多爾(出水済六道)、当喇多爾(廻遮施食)、登多爾(常川施食)、坐静、嚕綽(獅子吼道場)、雅満達噶(黒獄帝主)、吹斯絅多爾瑪(護法神施食)、斉特古朗絅(自受主戒)、辰類坐静、尼古察坐静(秘密坐静)、扎木揚(文殊菩薩)、衮布多爾(至尊大黒神廻遮施食)、赫巴匝爾(大喜楽)、璸匝雅(無量寿)、都克噶爾(白繖蓋呪)、班匝喇克察(五護陀羅尼経)、阿斯達薩達実哩(八十頌般若経)、薩斯納総(大理天神咒)、科爾羅普総(大輪金剛咒)、策巴克黙特総(無量寿経)、斯羅克巴(最勝王経)、撒思納屯(護神咒)、納木卓木総(懐相金剛)、卜嚕卜巴(呪法)などがある。また泥で小さな仏塔を作る「攃攃」や、二所から七所に及ぶ「多爾康」を作ることもあり、攃攃は十万から三十万に及ぶこともあった。かつて浮屠二百十六基を造り、七宝珠玉を納め、半分を海畔に半分を水中に置いて海の災いを鎮めたこともあった。延祐四年(1317年)、宣徽使の報告では毎歳内廷の仏事に費やす麪四十三万九千五百斤、油七万九千斤、酥二万一千八百七十斤、蜜二万七千三百斤に及んだ。至元三十年(1293年)間の醮祠仏事の目は百二つに過ぎなかったが、大徳七年(1303年)に功徳司が再建されると五百余に増え、僧徒は利を貪って尽きず、近侍と結んで欺いて布施を奏請するようになり、莽嘉に必要な費用は一年で千万に及び大徳の頃とは比べものにならなかった。毎年好事のたびに囚人の刑を減ずるよう奏請し福利としたため、丞相の阿里や必実哷勒のような大臣・帥臣までもがこれに乗じて誅を逃れた。宣政院参議の李良弼は賄賂を受けて官職を売り、帝師の名を借りて彼らを許した。その他殺人の盗や作奸の徒で夤縁して幸いに免れる者が多く、空名の宣勅を布施と称して人に任せることさえあった。まさに濫用と言うべきである。天下の寺院のうち内外の宣政院に属するものは、禅・教・律それぞれの業を守っているが、白雲宗・白蓮宗などは奸利に走ることも少なくなかった。

丘處機(長春真人)

  • 登州栖霞の人、自ら長春子と号した。幼い頃、相者から「異日神仙の宗伯となる」と評された。年十九で寧海の崑崙山で全真教を学び、馬鈺・譚処端・劉処玄・王処一・郝大通・孫不二とともに重陽王真人に師事した。重陽は処機を一目見て大器の人物と見抜いた。金・宋の末に相次いで使者を遣わし招いたが応じなかった。
  • 己卯年、太祖(チンギス・ハン)がナイマン(奈曼)から近臣の徹伯爾・劉仲禄を遣わし詔を持たせて求めさせた。処機は一日、弟子に旅支度を促し「天使が我を召しに来る」と語ると、翌日果たしてその二人が到着し、処機は弟子十八人とともに赴いた。翌年、山北に宿留する際、まず表を馳せて拳々に殺生をやめるよう勧めた。さらに翌年、再び催促の使者が至り、撫州から出発、数十国を経て万里の道を、戦場を踏み叛域を避け食糧が絶える沙漠を越え、崑崙より四年をかけて雪山に到達した。太祖は深雪の中を馬で行き、鞭を試みても雪の半ばにも達しないほどの深さであったという。太祖に見えると大いに悦ばれ、食を賜り廬帳を整えるなど厚遇された。
  • 太祖はこの時西征の最中で日々戦を事としていたが、処機は常に「天下を一つにしようとする者は必ず人を殺すことを好まないところにある」と説き、統治の方法を問われれば「敬天愛民を本とする」と答え、長生久視の道を問われれば「清心寡欲を要とする」と告げた。太祖は深くその言葉に感じ入り「天がこの老仙を我に賜り志を悟らせた」と言い、左右にこれを記させ諸子への訓戒とした。虎符を賜い璽書を副え、名を呼ばず「神仙」とだけ呼んだ。ある日雷が鳴り太祖が理由を問うと、処機は「雷は天の威、人の罪は不孝より大きいものはない、不孝であれば天に従わないため天威が震動して警めるのです。この地には不孝の者が多いようです、陛下は天威を明らかにして民を導くべきです」と答え、太祖はこれに従った。癸未年、太祖が東山で大狩りをして馬が躓いた際、処機は「天道は生を好みます、陛下はご高齢、しばしば狩猟をすべきではありません」と諫め、太祖はしばらく狩猟をやめた。
  • 当時国兵が中原を踏み荒らし、特に河南北がひどく、民は捕虜や殺戮を逃れる術がなかったが、処機は燕に戻り、弟子に牒を持たせ戦乱の中で招き求めさせた。これにより奴とされた者が良民に戻り、死に瀕して蘇生した者は二三万人を下らず、中州の人は今もこれを語り継ぐという。乙酉年、熒惑(火星)が尾宿を犯し、その占いは燕にあったが、処機が祈ると果たして退いた。丁亥年、旱魃に際し三日を期して雨乞いをすると効験があり「瑞応」と名づけられた。宮の名を「長春」に改め賜わる旨があり、使者を遣わして「朕は常に神仙を思う、神仙も朕を忘れるな」と慰問した。六月、東渓で沐浴した二日後に天が大雷雨となり太液池の岸が北に決壊し東湖に水が入り、その音は数里に聞こえ魚鼈がすべて逃げ池は涸れ、北口の高い崖も崩れた。処機は「山が摧け池が涸れる、私もこれと共にゆくのだろう」と嘆き、ついに没した。年八十。弟子の尹志平らが代々璽書を奉じその教えを継承し、至大間(1308〜1311年)金印が加賜された。
  • 処機の四代目の弟子に祁志誠という者がいた。雲州金閣山に住み道の誉れが高かった。丞相安図がかつて訪ねてその言葉を聞き、修身治世の要を語られた。安図はこれに感じ、世祖を輔佐する際も清静忠厚を主とし、罷免されて自邸に退いても淡々として世に関わりない様子であったのは志誠の教えを得たためと人は考えた。その後、安図が再び召されて入相する際、志誠に決を仰ぐと、志誠は「昔お前と同列だった者は誰か、今お前と同列の者は誰か」と問うた。安図は悟るところあり、世祖に謁見して「臣は昔宰相となった時まだ年若く、幸い陛下のもとで過ちを犯さずに済んだのは輔佐する者が皆臣の師友であったためです。今は臣に仕える者は皆臣とともに進んだ者ばかり、これでは臣の政がかつてより優れるはずがありません」と辞退した。世祖が「誰がそなたにそう言わせたのか」と問うと、安図は「祁真人です」と答え、世祖はしばらく感嘆した。

正一天師

  • 正一天師は漢の張道陵に始まり、以後代々続いて三十六代の宗演に至った。至元十三年(1276年)、世祖が江南を平定した後、宗演を召すと、世祖は廷臣に郊外で迎えさせ客礼をもって遇し、謁見の際「昔己未年、朕が鄂渚に宿陣していた頃、王一清を遣わしお前の父を訪ねさせたところ、父は『後二十年で天下は混一する』と告げてきた。神仙の言葉は今まさに証されたわけだ」と語り、坐に着かせ宴を賜り、特に玉芙蓉冠と組金無縫の服を賜って江南の道教を主領させ、銀印を給した。十八年(1281年)と二十五年(1288年)に再び入覲した際、世祖はその祖天師伝来の玉印宝剣を取り寄せて見て、侍臣に「王朝は幾度も交替してきたが、天師の剣印は子孫に伝わり今日に至る、これはまさに神明の相があるのだろうか」と嘆じた。二十九年(1292年)卒し、子の与棣が嗣いで三十七代となり江南道教を襲掌したが、三十一年(1294年)入覲の際京師で卒した。元貞元年(1295年)、弟の与材が嗣いで三十八代となった。当時、潮が塩官・海塩両州を侵食して害が甚だしかったが、与材が法術で治めると、一夜大雷電が起こり、翌日魚首亀形の怪物が水辺に磔にされているのが見つかり、潮の害はやんだ。大徳五年(1301年)上都の幄殿に召見され、八年(1304年)正一教主に授かり三山符籙を主領した。武宗即位に伴い来朝すると金紫光禄大夫を特授され留国公に封じられ金印を賜った。仁宗即位の際にも宝冠と組織文金の服を特賜された。延祐三年(1316年)卒し、翌年子の嗣成が三十九代を嗣いで江南道教を襲掌し、三山符籙を主領した。

張留孫

  • 正一天師の弟子である張留孫、字は師漢、信州貴溪の人。若くして龍虎山に入り道士となった。ある道人が彼を相して「神仙の宰相となる」と評した。至元十三年(1276年)、天師張宗演に従って入朝し、世祖と語り気に入られ闕下に留まった。世祖がかつて幄殿で親祭を行った際、皇太子が侍していたが突然の風雨に衆が驚くと、留孫が祈ってたちまち止んだ。また日月山に次った際、昭睿順聖皇后が重病になり急ぎ留孫を召して祈祷を求めた。すると皇后が朱衣長髯の者が甲士に導かれ朱輦・白獣に乗って草間を行くのを夢に見たといい、目覚めてこれを留孫に問うと「甲士に導かれる輦・獣は臣が佩びる法籙の中の将吏です。朱衣長髯の者は漢の祖天師です。草間を行くのは春の時節を表します。殿下の病は春には癒えるでしょう」と答えた。皇后が仕えていた画像を持ち出して見ると、まさに夢で見た通りの姿であった。帝后は大いに悦び留孫を天師に任じようとしたが固辞したため「上卿」の号を与え、尚方に宝剣を鋳造させて賜り、両京に崇真宮を建て留孫にこれを主らせ祠事を専掌させた。
  • 十五年(1278年)玄教宗師を授かり銀印を賜り、父を信州路治中に任じ、江東道同知宣慰司事に陞進した。当時天下は平定され世祖は民を休息させようと考えていたが、留孫は尚方に待詔しつつ黄老の治道は清浄と聖人在宥(無為の治)を貴ぶと論じ、その意は世祖の意にかなった。将にノゲジ(諤勒哲)を宰相に任じようとする際、留孫に占わせると同人卦の豫卦を得た。留孫は「同人は柔が位を得て乾に進む、君臣の合である。豫は建侯に利あり、宰相の事にふさわしい、これほどの吉はない、陛下は迷わずお決めください」と言い、ノゲジを拝すると天下は果たして賢相を得たと称した。大徳中(1297〜1307年)玄教大宗師同知集賢院道教事の号を加えられ、その三代を追封して魏国公とし官階を第一に位置づけた。武宗が即位すると召見し坐を賜り大真人・知集賢院・大学士の位に陞進、さらに特進を加え老子を進講し謙譲の道を明らかにした。仁宗即位後もその言葉を誦し続け、近臣に「累朝の旧徳で残るのは張上卿だけだ」と諭した。開府儀同三司に進み「輔成賛化保運玄教大宗師」の号を加え、玄教大宗師の印を玉で刻んで賜った。至治元年(1321年)十二月に卒した。年七十四。天暦元年(1328年)道祖神応真君を追贈された。
  • その弟子の呉全節が嗣いだ。字は成季、饒州安仁の人。年十三で龍虎山で道を学び、至元二十四年(1287年)京師に至り留孫に従って世祖に見えた。三十一年(1294年)成宗が朔方から至り召見して古琱玉蟠螭環一個を賜い、毎年侍従して行幸するたびに廬帳・車馬・衣服・廩餼を給するよう詔した。大徳十一年(1307年)玄教嗣師を授かり銀印を賜り二品と視された。至大元年(1308年)七宝金冠と織金文の服を賜り、三年、祖父に昭文館大学士を、父に司徒饒国公を、母に饒国太夫人を追贈し、その郷を「栄禄里」、里を「具慶」と名づけた。至治元年(1321年)留孫が卒すると、翌二年、特進上卿玄教大宗師崇文弘道玄徳真人総攝江淮荊襄等処道教知集賢院道教事に任じられ、玉印一と銀印二を授かった。
  • 全節はかつて岳瀆に代わって祭祀を行った際、成宗に「そなたの通った郡県で善政を行う者はいたか」と問われ「臣が洛陽を通った際、太守盧贄が平易無為で民を安んじていました」と答えると、成宗は「その人物なら覚えがある」と即日召して集賢学士に拝した。成宗崩御の後、仁宗が懐孟から至って、狂士が翰林学士閻復を危言をもって讒言する事件が起きたが、全節は李孟に力説し、孟がこれを奏上したため仁宗の意が解け、復は老を告げて去った。当時の人々は朝廷が大臣を敬礼し口舌によって賢者を傷つけなかったのは全節の力によるものだと考えた。全節は士大夫と交わることを好み、長者との交わりは特に篤く、善類を推薦し、困窮を救うことも恩怨で心を異にすることがなかった。当時人々は彼を頗る侠気があると評した。年八十二で卒し、弟子の夏文泳が嗣いだ。

真大道教

  • 真大道教は金の末に道士劉徳仁が創始した。苦節危行を要とし、みだりに人から取らず、自らも侈らないことを教えとした。五代を経て酈希誠が燕城の天宝宮に居し憲宗の知遇を得て、始めてその教えを「真大道」と名づけられ、希誠は太玄真人を授かり教事を統べ、内より冠服を賜り従者に紫衣三十襲を賜った。至元五年(1268年)、世祖はその弟子孫徳福に諸路の真大道を統轄させ銅章を賜り、二十年(1283年)銀印二個に改められた。さらに二代を経て張志清に至り教えはますます盛んになり、演教大宗師凝神冲妙玄応真人を授かった。志清は親孝行で辛苦に耐え、その行いは堅く厳しかった。東海の珠牢山には昔多くの虎がいたが、志清が茅を結んでそこに住むと虎たちは移り去ったが、なお人を害することがあったため志清は「これは私が虎の住処を奪ったせいだ」と言ってそこを離れた。後に臨汾に住むと大地震が起き城郭や邑屋が崩れ多くの死者が出たが、志清の住まいだけは二つに裂けただけで損害はなかった。志清は木石の間を巡って呻き声を聞くと救助し多くの命を助けた。朝廷はその名声を重んじ駅を給して呼び寄せ教事を掌らせた。志清は駅伝を用いず徒歩で京師に至り、深く簡素に暮らし人前に姿を見せることは少なかった。貴人達官が来訪しても病と称して臥所にこもり起きなかったが、道徳を重んじる搢紳の士が来れば履を脱ぎ杖をついて求め、決して難しがらなかった。当時の人はその風格を高く評価し、画にして代々伝えた。

太一教

  • 太一教は金の天眷中(1138〜1140年)に道士蕭抱珍が太一三元法籙の術を伝えたことに始まり、その教を「太一」と名づけた。四代を経て蕭輔道に至り、世祖が潜邸にあった頃その名を聞き史天澤に召させて和琳で対面し、意にかなって留め置いた。輔道は老いを理由に弟子の李居寿への継承を願い出た。至元十一年(1274年)両京に太一宮を建て、居寿にこれを掌らせ祠事を管領させ、六丁(六甲六丁の神)を祀ることで太保劉秉忠の術を継がせた。十三年(1276年)太一掌教宗師の印を賜り、十六年(1279年)十月辛丑、月が元辰にあたる日、居寿に赤章の醮を天に奏させ五昼夜行わせた。事が終わると居寿は「皇太子はすでに壮年、国政に参与すべきです」と間隙をついて奏上し、また典瑞の董文忠を通じても進言させた。世祖は喜んで「まさにこれから実行しよう」と語り、その後太子が朝政に参決し庶事はまず太子に上奏してから帝に奏上する制度が定められたのは、居寿がその先鞭をつけたものであった。