丁好禮(字敬可)と郭庸
- 丁好禮は字を敬可、真定蠡州の人。律算に精通し、初め戸部に吏として試され、中書掾に辟され戸部主事を授かり、江南行台監察御史に抜擢、再び戸部に入り員外郎となり監察御史を拝命、また戸部に入り郎中となり侍郎に陞った。京畿漕運使を除され、通州に司を置くことを建議し、漕運の利病を重ねて講究して成法を著し、人はみなこれを便とした。戸部尚書を除され、時に国家は多事で財用は空乏していたが、好礼はよく浮費を撙節し国家の用度はこれに頼って給された。参議中書省事を拝命、治書侍御史に遷り、出て遼陽行省左丞となったが赴任前に留まって枢密副使となった。至正20年(1360年)ついに中書参知政事を拝命。時に京師は大飢饉、天寿節に廟堂は故事に従って大宴会を用いようとしたが、好礼は「今民は父子で互いに食い合う者がいる、君臣は当に修省して大患を弭めるべき、宴会は常度を減らすべき」と言ったが聞き入れられず、致仕を乞い集賢大学士をもって致仕し全俸を給されて家居した。庫庫特穆爾(ココテムル)が皇太子に扈従して京に還る際、山東の粟を輸して朝貴に贈り好礼に麦100石を饋ったが、好礼は受けなかった。
- 27年(1367年)再び起用され中書平章政事となったが、まもなく論議が合わず政を謝して去り、特に趙国公に封じられた。大明の兵が京城に入ると、ある者が大将への謁見を勧めたが、好礼は叱して「私は小吏より身を興し位は極品、爵は上公に至った、今老いた、国に報いる術がないのが恨めしい、欠けているのはただ一死のみだ」と言った。数日後、大将が好礼を召したが行こうとせず、舁いて斉化門まで連れて行かれても抗辞して屈せず死んだ。享年75。この日、中書参知政事の郭庸もまた舁がれて斉化門に至り、衆が叱すると庸を拝させようとしたが「臣はそれぞれその主のために死ぬ、これは私の分である、何を拝することがあろうか」と言い、言葉は少しも屈することなく死んだ。庸は字を允中、蒙古氏。国学生より釈褐出身し累遷して陝西行台監察御史となり、同列とともに知枢密院事の額森特穆爾(エセンテムル)が師を喪ったことを弾劾し、中興総管府判官に左遷された。その後額森特穆爾は罪により黜けられ、庸は召されて監察御史を拝命、累転して中書参政となった。その節義は好礼と並び称された。