延平・益都での防戦
- 布延布哈は字を希古、蒙古氏。倜儻で大志があった。至正5年(1345年)国子生より右榜進士第一人に及第、翰林修撰を授かり河南行省員外郎に調された。11年(1351年)江西行省左右司郎中に遷る。蘄・黄の徐寿輝が来冦した際、布延布哈は戦守の功が多く、その詳細は道通伝に語られている。16年(1356年)江西廉訪副使を除された。まもなく召還され益都路達嚕噶齊を授かり、山東廉訪使に遷り、再転して中書参知政事となった。18年(1358年)詔で治書侍御史の李国鳳とともに江南を経略することとなり、建寧に至った際、江西の陳友諒が鄧克明を遣わして来冦し、平章政事の阿嚕烏遜(アルウスン)らはみな夜に逃げた。国鳳は時に延平に分鎮していたが城が陥落すると逃げ去った。布延布哈は「私は制を承けてここに来た、去ってどこへ行こうか、この城と存亡を共にすることを誓う」と言い、各門に甕城を築かせ前後64日拒戦した。まもなく賊衆を大破した。翌年召還され山東宣慰使を授かり、再転して知枢密院事・平章山東行省となり益都を守禦した。
一族の殉節
- 大明の兵が国境に迫った際、布延布哈は城を守り力戦したが城は陥落し、平章政事の巴拝(ババイ)は出て降った。布延布哈は還って母に「私は忠孝を両全できません、二人の弟がいますのでその者らに終養させてください」と告げ、母を拝すると官舎に趨り堂上に座した。主将は元来その賢を聞いており再三召したが行かなかったので、まもなく面縛された。布延布哈は「私は元朝の進士、官は極品に至った、臣たる者はそれぞれの主のために屈せず死ぬものだ」と言い死んだ。
- これより先、その妻の阿爾展(アルジャン)は家人を呼び集めて「私の夫は国恩を受け、私もまた斉国夫人に封じられている、今事はここに至った、死ぬしかない」と告げ、家人で嘆息して涙を流さない者はなかった。まもなく布延布哈の2人の弟の妻はそれぞれ幼子と婢妾を抱いて舎の南の井に身を投げて死んだ。阿爾展が身を投げようとしたが井は死者で埋まって入れなかったので、子を抱いて舎の北の井に身を投げた。その娘・妾・孫娘もみな続いて身を投げて死んだ。
- この時、申栄という者があり平章山東行省として東昌を守っていたが、栄は列郡がみな降ったのを見て父に「人はこの世に生まれて忠孝を全うできない者があります、それが私です」と告げた。父が「なぜだ」と問うと、栄は「城中の兵は少なく敵に及ばない、戦えば1万人の命が私によって廃されてしまう、ただ死をもって国に報いるしかありません」と言い、自ら首を吊った。