元史卷一百九十五 列傳第八十二 劉畊孫

劉畊孫(字存吾)と弟燾孫

  • 劉畊孫は字を存吾、茶陵州の人。至順元年(1330年)進士、承事郎・桂陽路臨武県尹を授かった。臨武は蛮獠に近く、畊孫は至ると父老を召して「私は儒士である、今お前らの邑尹となった、父老はよく私の教訓を体し、その子弟に孝弟を教え力田させ、暇には詩書に事させよ、自ら棄てて私の政に背くことがあってはならない」と告げた。学校を建て民間の俊秀を求めて教え、俎豆を設け礼譲を習わせ、3年で文化は大いに興った。邑には茶課があり歳ごとに5錠を超えなかったが後に50錠にまで増えていたので、畊孫は朝廷に言上しその額を除いた。建徳・徽州・瑞州三路の推官を歴任し、至る所で疑獄を詳らかに審理し、その政績は卓然たるものが多かった。至正12年(1352年)春、蘄黄の賊が湖南を攻め破ると、畊孫は家財を傾けて義丁を募り茶陵を援けた。賊が至るたびに退けたので、茶陵は久しく失守しなかった。
  • 15年(1355年)儒林郎・寧国路推官に転じ、飢饉の年に富民を勧めて粟を賑わせ活かした者は万を数えた。折しも長槍軍の索諾木巴勒(ソノムバル)・程述・謝璽らが寧国を攻めたので、畊孫は城の西南を分守し、昼は府事を署し夜は城壁に登って固守した。江浙行省は参知政事の済農格爾(ジノンゲル)を遣わして援けさせたが、至った時にはすでに兵は疲れていた。城は援があることを恃んで備えを怠っていたところ、索諾木巴勒はこれを知り夜四鼓に衆を率いて堞を伝って登り、城はついに陥落した。畊孫は力戦して死んだ。弟の燾孫は国学生として下第し常寧州儒学正を授かっていたが、湖南が陥落した際、長吏は城を棄てて逃げたので、民は印を奉じて燾孫に城守を請うた。城はこれによって全うされたが1年後、外援がすべて絶え死んだ。長子の碩は武昌江夏県魯湖の大使となり義兵を起こして茶陵を援けたがやはり死んだ。