元史卷一百九十四 列傳第八十一 石普

高郵攻めの策と挙兵

  • 石普は字を元周、徐州の人。至正5年(1345年)進士、国史院編修官を授かり経正監経歴に改まった。淮東西で盗が起こり朝廷はまさに用兵していたが、普は将略で称され、同僉枢密院事の董鑰がその才を薦めた。折しも丞相の托克托(トクト)が徐州を討伐し、普はこれに従軍した。徐州が平定されると功を録され兵部主事に遷り、まもなく枢密院都事に陞り枢密院官に従い淮安を守った。時に張士誠が高郵に拠っていたので普は丞相に面陳して賊を破る策を述べ、「高郵は重湖の険に拠り地はみな沮洳で騎兵は前進できない、私に歩兵3万を与えて保取させよ」と言った。高郵が平定されれば濠・泗は破りやすいと述べ、普は先駆となり天下の忠義の倡となることを請うた。丞相はこれを壮とし山東義兵万戸府事を権に命じ、民の義兵1万人を招いて出発させたが、汝中柏(じょちゅうはく)という者が用事しており密かにこれを阻み軍を半分に減らし、初め普に便宜行事を命じておきながら出発する段になると淮南行省の節制に聴くよう命じた。
  • 普は范水砦に至って進軍を止め、日がまだ夕暮れになる前に軍中に食事を用意させ、夜漏3刻に銜枚(口に枚を含み声を出さないようにする)を命じて寶応に趨り、その営中の更鼓は平時のように鳴らし続けさせた。県に至ると城に登り旗を樹てると城上の賊は大いに驚き潰走したので、その民を撫安した。これにより諸将は普の功を疾んだ。水陸から兵を進め勝ちに乗じて十余の砦を抜き賊数百人を斬った。高郵城に至ろうとすると兵を三隊に分け、一隊は城の東に趨いて水戦に備え、一隊は奇兵として後方に備え、普は自ら北門を攻める兵を率い、賊に遭遇して戦うと賊は支えきれず城に逃げ込んだ。普は士卒に先立ってこれを踏み、火を放って関門を焼いた。賊は懼れて城を棄てて逃げようと謀ったが、援軍はこれを望みながら兵を進めず、普の成功を忌んだ。総兵者は蒙古軍千騎を遣わして普の軍の前に突出させ先入の功を収めようとしたが、賊は死を賭して防ぎ、蒙古軍は怯えてすぐに馳せ戻ろうとした。普はこれを止めようとしたが止められず、賊に蹂躙され多くが水中に墜ちた。

力戦と最期

  • 普の軍は乱れ賊はこれに乗じたが、普は残兵を率い血戦すること長らく、剣を仗して大呼し「大丈夫は当に国のために死すべし、前に進まない者は斬る」と言い奮撃して直ちに賊陣中に入った。従う者はわずか30人であった。日が西に傾く頃、援軍は絶え傷を負って馬から墜ち、なお歩戦すること数合、賊はさらに増えた。賊は「これは必ず頭目だ、逃してはならない、生け捕りにせよ」と指したが、普は叱して「死ね賊奴め、私はただの石都事だ、なぜ頭目と言うのか」と言い、左脇を賊の槍に刺されながらもなおその槍を手に握って賊を斬り殺した。賊衆は槍を集めて普を刺し、普と従者はみな力戦して共に死んだ。