太原を鎮めるまで
- 攸哈喇巴図は渤海の人、初めの名は興格(コンゲ)。世々農家で騎射に長け、郷里で武断していた。金末に大寧に難を避け、国兵が至ると高州の富庶寨に出て保ち、狩猟で食を得た。たびたび大営の家畜を奪い、追う者を射殺した。国王穆呼哩は兵を率いて寨を攻め、寨が破れると興格は高州へ逃げた。国兵が城を囲むと「興格の首を斬って降れば城中の居民はみな生命を得る」と令を下した。守将は興格に「汝は奇男子、私はどうして汝の首を断って献上するに忍びようか、汝自ら降ってはどうか、さもなければわが一城の生霊は皆殺しになる」と告げた。興格は矢を折って出て降伏した。諸将は怒って興格を殺そうとしたが、穆呼哩は「壮士である」として留め、麾下に加え自らの用とした。
- 穆呼哩に従い通州を攻めた際、興格は一晩で砲30、雲梯数十を造る計を献じ、城に付けたので州将は懼れて宝貨を出して降った。穆呼哩は興格に自由に取らせたが、興格はただ良馬3頭だけを取って兵士に与えた。穆呼哩はその功を太祖に聞かせ、太祖は名を賜り哈喇巴図とした。穆呼哩に従い燕南を略した際先鋒となり、大名に至ると金将の図克坦(トクタン)が城に登り督戦したので、哈喇巴図はこれを射て左目に命中させ、部将は開門して逃げた。追撃して敵をほぼ殲滅し、功により金符を賜り随営監察に充てられた。戊寅年(1218年)金虎符・龍虎衛上将軍・河東北路兵馬都元帥を授かり太原を鎮めた。
太原防衛と戦死
- 太原は新たに破られたばかりであったので、哈喇巴図は城池を修め兵甲を繕い属邑に降伏を勧め市肆を変えず、遠近これを聞いて相い率いて帰順した。かつて微服で夜に出て、民間の語に「われらは父母子女を互いに失った、死者は生き返らず、生者を贖う金もない、どうしたものか」というのを聞き、翌日軍中に「俘獲した者に親がある場合は贖いを許し、貲のない者は官が贖う」と令を下し、多くの民が家族と再会できた。庚辰年(1220年)2月、金の梁知府が西風寨を立て居民の耕牛を奪ったので民が群れて訴え、哈喇巴図は数騎を率いて梁知府を追い殺し首を西門に梟して耕牛を駆って還した。
- 穆呼哩が葭州から河を渡って西行した際、哈喇巴図はこれを迎え、道すがら隰州および懸窯の地洞の諸寨を破った。辛巳年(1221年)3月、金兵が寿陽県の王胡荘を攻め陥落寸前、左右の裨将はそれぞれ兵を分けて険を守り城中の見卒は100に満たなかったが、哈喇巴図は夜半に甲騎十余人を率いて救援に向かい、道の三交で金兵が烽火を東西の両山に挙げるのを見て駆けつけ、大いに戦い、夜明けに金兵は逃げ去った。金兵は太原の虚を衝いて西門から哈喇巴図の家属を捕虜にしたが、哈喇巴図はこれを聞くと西山へ直進しこれを奪還した。5月、金の趙権府が兵3万を率いて太原を包囲したが、哈喇巴図は騎30を率いて西門を出て、騎に柴を曳かせ塵を揚げさせ「国兵3万が来た」と声高に言わせると金兵は懼れて潰走した。
- 癸未年(1223年)金の馬武京が太谷県桑梓寨を攻めてきたが、哈喇巴図は険に伏兵を設け軽騎でその陣を衝かせ伏兵が発してこれを大破した。この時太原の諸邑はみな平定されたが、石家昻および盂州陵井寨・忻州清泉寨だけが唇歯となってまだ下っていなかった。甲申年(1224年)10月、兵を率いて陵井に至り卒を遣わして寨門を叩き「糧秣を納めに来た」と詐り、守者が悟らぬうちに門が開いて直入し蹂躙、衆は潰えその酋長は石家昻へ逃げ、こうして陵井寨は平定された。乙酉年(1225年)2月、清泉寨の酋長王殻が降り、石家昻もまた降った。丁亥年(1227年)5月、姦人が夜に太原の東門を武仙に献じ、仙は兵を率いて入った。哈喇巴図は鏖戦したが仙の兵は大挙して至り、諸将は城外から「攸哈喇巴図よ汝はここを出るべきだ」と呼んだ。哈喇巴図は「真定の史天倪、平陽の李守忠、隰州の田雄はみな守りを失った、私もまた太原を棄てればどんな面目で主上と国王にまみえられようか、家属は公らの俘とするに任せる」と言い、城と存亡を共にすると誓い、ついに陣中で没した。太祖はその子が幼いため、表弟の王七十に太原を再び立てさせた。己丑年(1229年)鳳翔府攻めで砲に中たり戦死。哈喇巴図の長子孟古岱が跡を継ぎ太原を鎮めた。