元史卷一百八十五 列傳第七十二 汪澤民
出自と生い立ち
汪澤民は字を叔志といい、徽州婺源州の人。宋の端明殿学士汪藻の七世孫にあたる。幼くして聡明で貧しいながらも勉学に励み、経学に通じた。延祐初め、春秋を以て郷貢に中り礼部で落第したが、寧国路儒学学正となり、延祐五年(1318年)進士に及第、承事郎同知岳州路平江州事に任じられた。母が八十歳であることを理由に近地への異動を願い出たが許されず、母を連れて赴任した。
地方官の治績
州民李氏の家産を巡り、兄が弟の妻を陥れた冤罪を澤民が明らかにした。江南包銀の徴収を分担して滞りなく完了させた。南安路総管府推官に遷り、勢力を恃む万戸多爾濟の横暴を糾し、部下の獄吏の贖賂をも退けて厳正に裁いた。潮州府判官銭珍の奸淫殺人事件に連座した広東亷訪副使劉安仁の獄が長らく解決しなかったが、澤民が審理してただちに真相を明らかにした。信州路・平江路の総管府推官を歴任し、僧の浮広殺害事件では凶器の刀の銘から真犯人(被害者の弟子)を突き止め冤罪を晴らした。孔子の後裔である衍聖公の品秩を高めるよう建議し、朝廷はこれに従った。
致仕とその死
至正三年(1343年)遼金宋三史修纂のため召され国子司業となり、修史に参与し集賢直学士に遷った。二か月足らずで辞意を告げたが慰留され、結局嘉議大夫礼部尚書として致仕した。郷里で門生故人と交わり超然として過ごしたが、至正十五年(1355年)蘄黄の賊が徽州を陥れ、宣州にいた澤民は籌画に参与して防衛にあたった。翌年、長槍軍の索諾木巴勒らが叛乱を起こして侵攻し、周囲の勧めにも拘わらず去らず守り続けたが、ついに城が陥落し澤民は捕らえられ、降伏を拒んで罵り屈せず殺された。享年七十。資善大夫江浙行中書省左丞を贈られ、譙国郡公に追封、諡は文節。