元史卷一百八十五 列傳第七十二 吕思誠

出自と生い立ち

吕思誠は字を仲實といい、平定州の人。六世祖の宗禮は金の進士で遼州の司戸となった家系で、代々学問の家であった。父の允は平定知州を務め致仕した。母の馮氏が神人の夢を見て思誠を身ごもったという逸話が伝わり、生まれつき目に神光があると評された。長じて蕭㪺に学び、国子学に入って陪堂生となり、国子伴読の試験に選ばれた。

地方官として

泰定元年(1324年)に進士に及第し、同知遼州事に任じられたが赴任前に父の喪に服した。景州蓨県尹に転じ、民戸を三等に分けて徭役を均し、孔子像を刻んで社学の祭祀を興し、春の農事を励んだ者には農具を賞した。流亡していた民の復業を助け、名簿を作って管理を厳格にし、豪猾な者の不正な職田占有の弊を除いた。天暦の兵乱では富民から鈔を貸し出させて軍需をまず調達し、事後に官の代金で速やかに返済させ、民を煩わせなかった。人身売買された翟彝の身請けを助け、良民に戻した。劉智社の李某兄弟の不和や王青兄弟の争いを説諭して和解させた。孀居の張復の叔母を憐れんで扶養させ、旱魃の際には人を惑わす道士と青蛇の妖言を退けて自ら雨を祈り、淫祠を悉く毀す一方、董仲舒の祠だけは残した。

中央官としての諫言

翰林国史院検閲官に擢用され編修に陞った。文宗が奎章閣で国史を私的に閲覧しようとした際、思誠は末僚でありながら独り跪いて争い、これを止めさせた。国子監丞・司業を経て監察御史に拝され、鄂倫圖らと共に中書平章政事の徹爾特穆爾が朝政を乱した罪を弾劾したが、上奏は握りつぶされたため印綬を返上して退いた。広西亷訪司僉事として巡行し、勢力を恃んで民を虐げていた于元帥を捕らえてその不正を暴いた。浙西に転じた際、達実特穆爾に私怨から江浙省の官を弾劾するよう唆されたが、「天子の耳目であって台臣の鷹犬ではない」と拒んだ。行省平章の左吉の貪墨を弾劾し海南に流した。国子司業に再任、中書左司員外郎に遷り、河南省臣殺害事件で誣告された三十余人を弁護して救った。

至正の鈔法論争

左司郎中に陞ったが剛直さゆえに嫉まれ弾劾されて一時罷免された。右司郎中、刑部尚書を経て科挙復活に伴い読巻官を務め、礼部尚書、治書侍御史として遼金宋三史の総裁を務めた。侍御史、枢密院副使を経て、平章の衮布巴勒の不法を巡る紛議に巻き込まれたが無実と分かり河東亷訪使に転じた。集賢侍講学士兼国子祭酒、湖広行省参知政事、湖北亷訪使、中書参知政事、御史中丞などを歴任し、清道官の怠慢を弾劾した。国子監・翰林学士承旨を兼ね、后妃功臣伝の総裁を務め栄禄大夫に進み玉帯を賜った。枢密副使、中書左丞を経て、吏部尚書の偰哲篤・左司都事の武祺らが鈔法改革(旧鈔を母、新銅銭を子とする案)を建言した際、思誠は「銅銭を子とするのは道理に合わない」「祖宗の成憲をみだりに改めるべきでない」と強く反対し、「三字の策あり、行不得(実行できぬ)」と言い放って論争になった。丞相トクトは思誠の言を重んじたが、結局監察御史の弾劾により誥命と玉帯を奪われ湖広行省左丞に左遷された。太医院宣使の秦初が赴任を迫って窘辱したが動じなかった。

武昌の防衛と晩年

武昌城下で諸将に、賊は我らの来襲を知らぬはずと説いて意表を突き、無血で入城した。賊去った後は号令を整え城郭を修め軍備を固めた。苗軍の暴虐に対しても正色して叱り、無敵の信望を得た。復た中書左丞に召還されたが、思誠が去って二日後に城は再び陥落した。光禄大夫大司農に移り、至正十七年(1357年)三月十七日に六十五歳で没した。剛直で権勢に屈せず、三度国子祭酒を務め許衡の旧法に倣った。文集若干巻、『両漢通紀』若干巻を著し、諡は忠粛。