元史卷一百八十四 列傳第七十一 崔敬

出自と直諫

  • 崔敬は字を伯恭といい、大寧惠州の人。刑名法律の学に通じ、書吏から中書掾に陞り、至元5年(1339年)刑部主事、樞密院都事、監察御史を歴任。
  • 文宗廟主の毀却・文宗后の号削減・皇弟雅克特古斯(燕帖古思)の高麗放逐に際し、「明皇(明宗)の崩御時、太子は襁褓にあり無知であった、武宗にとって明宗・文宗はいずれも実子、陛下と太子もいずれも嫡孫、区別すべきでない」と上疏し、太后・太子の召還を訴えた。

上都行幸・賜賚への諫言

  • 天子の上都巡幸で、内殿ではなく先皇の遊興の場に居することを諫め、大内に還って宰臣と治道を謀るべきと上疏した。歴代珍宝の乱発的な下賜に対し、「世皇の時代は大臣の功にも槃革のみを与えた」と例を引き、飢饉・災異の中での浪費を戒めた。

地方官としての冤罪処理と晩年

  • 山北廉訪司事として全寧の李秀の偽鈔事件を精査し、真犯人の大同の王濁を摘発した。河南・江東の廉訪使として豪強を抑え民を助け、江西行省左右司郎中、工部侍郎、大都路総管府同知として直沽河の浚渫を3ヶ月で完成させた。
  • 刑部侍郎、中書左司郎中、兵部尚書、樞密院判官、刑部尚書を歴任。広東の讐殺事件で大逆罪の連座範囲を「大逆でなければ一家連座は不当」と論じ、朝廷に容れられた。
  • 樞密院判官、参知政事として河南に赴き、兵部尚書兼濟寧軍民屯田使として屯田制度を整え、鈔10万錠を招集資金として活用し年収百万斛を達成した。
  • 大司農少卿を経て中書参知政事として山東の盗乱鎮圧に陵州で分省し、招安策を成功させた。納粟補官の令を建議し実施、山東郡邑の回復に多く貢献した。18年(1358年)山東行樞密院副使、江浙行省左丞を経て67歳で没した。資善大夫・江浙行省左丞を贈られ、諡は忠敏。