出自と監察御史時代
- 蘇天爵は字を伯脩といい、真定の人。父志道は嶺北行中書省左右司郎中として和林の飢饉救済に功績があった。国子学生の公試で首席を得て薊州判官に任じられ、泰定元年(1324年)翰林国史院典籍官、応奉翰林文字に陞った。
- 至順元年(1330年)武宗実録の修纂に加わり、江南行台監察御史として湖北の慮囚(囚人の再審)に瘴毒を冒して赴き、冤罪を丹念に精査した(雷乙による甥殺害事件、盧甲・莫乙・汪丙の三人事件などの緻密な推理裁決の逸話が伝わる)。
地方官と晩年
- 監察御史、奎章閣授経郎、元統元年(1333年)監察御史に復し、4ヶ月で45件の上奏を行い、5人を弾劾し109人を推挙した。文宗実録の修纂、翰林待制、中書右司都事兼経筵参贊官を歴任。
- 淮東道粛政廉訪使として綱紀を振興し、樞密院判官、吏部尚書、陝西行台治書侍御史、参議中書省事を歴任。至正2年(1342年)湖広行省参知政事、陝西行台侍御史を経て、4年(1344年)集賢侍講学士兼国子祭酒として師表の刷新に努めた。
- 山東道粛政廉訪使、京畿奉使宣撫として783件の興除・949件の弾劾を行い「包拯・韓琦のごとし」と称された。江浙行省参知政事、大都路都総管、両浙都転運塩使を歴任し塩法を改善、鈔80万錠の課税を達成した。
- 至正12年(1352年)妖寇の反乱に対し江浙行省参知政事として饒信を鎮圧したが、憂労により軍中で59歳で没した。著書に『国朝名臣事略』15巻・『文類』70巻・『詩藁』7巻・『文藁』30巻など。「滋渓先生」と呼ばれ、中原の文献を一身に担う存在とされた。