出自と官歴
- 王守誠は字を君実といい、太原陽曲の人。鄧文原・虞集に学び文才を磨いた。泰定元年(1324年)礼部試第一、廷対で同進士出身、秘書郎、太常博士として『太常集礼』の続編纂に携わった。
- 藝林庫使、陝西行台監察御史、奎章閣鑒書博士、監察御史、山東廉訪司事、戸部員外郎、中書右司郎中、礼部尚書を歴任し遼金宋三史の修纂に加わった。
四川での冤罪処理
- 参議中書省事、燕南廉訪使を経て、至正5年(1345年)河南行省参知政事として四川に赴き、雲南都元帥舒嚕多爾濟の文武の才を薦めた。四川廉訪使が行省平章と不和で宣使蘇伯延を誣告投獄・獄死させた事件では、遺族の訴えを受け廉訪使を処罰、憲史4人を処分した。
- 重慶銅梁県尹張文徳が盗賊討伐で正当防衛を行ったにもかかわらず誣告された事件を直し、贓罪誣告の百件近い訴訟も精査して雪冤した。州県官の職田過重取得14人を正し、蜀に赴任する官の俸給不足を訴え、戸絶・荒屯田を耕作に充てる制度を提案した。
晩年
- 賓龍山の憲宗神御殿建設案、文翁石室書院復興案などを朝廷に取り次ぎ実現させた。功績により資政大夫・河南行省左丞に進んだが、母の訃報を受けて帰郷し、至正9年(1349年)正月54歳で没した。鈔1万緡を賜り諡は文昭。文集が伝わる。