元史卷一百八十一 列傳第六十八 掲傒斯

出自と学問

  • 掲傒斯は字を曼碩といい、龍興富州の人。父来成は宋の郷貢進士。幼くして貧しく刻苦して学び、父子で師友となった。湖南帥趙淇に「他日翰苑の名流」と評され、程鉅夫・盧摰に器重されて妻を娶り、延祐初年(1314年)翰林国史院編修官に薦挙された。
  • 平章李孟が編纂した功臣列伝の質を見て「これぞ史筆」と称えた。応奉翰林文字、国子助教を経て、天暦初年奎章閣が開かれると授経郎に抜擢され勲戚大臣子孫を教えた。

文宗の信任

  • 文宗が字で「揭曼碩」と呼び、名で呼ばなかったほど親愛された。太平政要策の献策や富州の淘金戸の弊政(採金の重課で戸が破滅した件)を訴えて課税免除を実現させ、憲典の編纂は「唐律のようだ」と称された。
  • 藝文監丞などを歴任、元統初年(1333年)詔対で慰諭を受け、集賢学士に遷った。儒学官の銓考の手続きを簡素化する改革を建言し実現させた。

経筵官・史官としての晩年

  • 至正3年(1343年)70歳で致仕を願うも追及されて留任、明宗神御殿碑文を撰し、賜物を辞そうとしたが丞相托克托らに慰留された。銅銭の兼用による鈔法救済策を執政の反対にもかかわらず主張し続けた。
  • 遼金宋三史の総裁官として、丞相の問いに「用人は心術を本とすべき」と答え、史事の意を「小善必録・小悪必記」と説いた。遼史完成の褒賞ののち史館に留まり寒疾にかかり7日で没した。護軍を贈られ豫章郡公を追封、諡は文安。
  • 清儉を貫き、薦士を惜しまず吏の貪墨を糾したという。文章は簡明で叙事に優れ、詩は清婉、楷書行草にも巧みで、朝廷の大典冊や元勲の銘文の多くを手がけた。