元史卷一百七十九 列傳第六十六 楊多爾濟

出自と仁宗への仕え

  • 楊多爾濟は河西寧夏の人。幼くして父を失い兄と自立し、言語儀度が成人のようであった。仁宗が藩邸にあったときから厚く重んじられ、大徳丁未(1307年)懐孟への遷移に従った。仁宗が朝廷の変事を聞き北還する際、李孟とともに京師に先発し、右丞相哈喇哈斯と武宗の北藩迎立を定策した。
  • 仁宗が還京後、内難平定の功により太中大夫・家令丞に任じられ、休沐の日も家に帰らぬほど側近くに仕え、衆に敬憚された。兄の死に際し哀しみに沈む楊多爾濟を仁宗は憐れみ厚遇した。

仁宗朝の直言

  • 正奉大夫・延慶使に進み、武宗が「剛直だが寡合」と評された。仁宗が政を執り誤国者の誅殺を進めようとした際「政をなして殺を尚ぶのは帝王の治ではない」と諫め、帝はその言に感じて特に甚だしい者のみを誅し民は喜んだ。李孟は元従の人材で楊多爾濟を第一とし、帝もこれを認めた。
  • 礼部尚書として、尚書省が改鋳した至大銀鈔・至大銅銭の廃止議論に対し「法の便否は立法者ゆえに廃すべきでない、銀鈔と銅銭・楮幣を併用するのが昔の道である」と論じた。
  • 宣徽副使、侍御史を経て、告発者を誅そうとした帝に対し「告げた者を誅すれば刑を失い、諫める者に逆らえば義を失う」と諫め、張珪を中丞に推挙して用いさせた。犯法者には貴幸でも容赦せず、資徳大夫・御史中丞となった。

中丞としての奏事

  • 中書平章政事張閭が民の河渡地を奪った件を大体を失するとして弾劾罷免。江東西奉使威喇(ウェイラ)の不称職を権臣の隠蔽にもかかわらず弾劾し杖刑に処した。御史納琳(ナリン)の言事が帝の逆鱗に触れた際も繰り返し救い、昌平への左遷にすら異を唱えた。
  • 帝が『貞観政要』を読んで魏徴を慕った際、「太宗が聴いたから直臣たりえた」と応じ、上書して宰相を怒らせた者の処刑を「詔書に『言不当なるも罪なし』とある」と諌めて止めた。昭文館大学士・栄禄大夫を加えられたが、王爵の贈与などの私を求めることを拒んだ。
  • 中政院使、集賢大学士を経て、権臣特們徳爾(テムデル)に害されて42歳で没した。武宗崩御後、特們徳爾が丞相となり専横したが、御史中丞蕭拜珠がこれを牽制し、楊多爾濟も御史中丞として糾正に努めた。

弾劾と刑死

  • 上都の富民張弼の殺人事件で、特們徳爾が大奴を使い留守賀巴延(賀勝)を脅したが果たせず、留守は不法を糾した。楊多爾濟は張弼の贓を巨万、大奴の分も数千と摘発し、御史徐元素に実を得させ、御史納琳がさらに私罪二十余条を発した。
  • 帝は激怒し逮問を命じたが特們徳爾は逃げ隠れ、帝は酒を控えて裁決を待った。大奴らを誅殺したが特們徳爾自身は逃れ、太后旨により責められた際、楊多爾濟は「祖宗の法を奉行しただけ」と応じた。帝は太后の意を汲み特們徳爾の相位のみ罷免、楊多爾濟は集賢学士に遷された。
  • 仁宗崩御後、英宗が東宮にあった間に特們徳爾が再び相位に復し、太后旨を偽って蕭拜珠と楊多爾濟を糾問させたが、楊多爾濟は「果たして太后旨に違えたなら、汝は今日あるものか」と反論した。証人二人を唾罵し「汝らは風憲の任にありながらこの犬彘の所業か」と叱った。
  • ついに国門外で蕭拜珠とともに処刑された。当日は風沙が晦冥し、都人は恐れ道行く者が目配せのみで語らなかった。英宗即位の詔書はなお誣罔大臣の罪を加えたが、太后は驚き悔い、帝もその譖言者が先帝の旧臣であったことに気付いた。特們徳爾は病死し、雪冤の機会は張珪らの尽力により、丞相拜珠(バイジュ)が帝に請い実現した。忠愍と諡され、金紫光禄大夫・司徒・上柱国・夏国公を追贈された。楊多爾濟の死後、権臣がその妻劉氏を奪おうとしたが、劉氏は断髪毀容して自ら誓い免れた。

楊多爾濟の子・布哈

  • 布哈は才気があり礼を守り読書を好んだ。仁宗に召され翰林直学士を求められたが辞退。家難に遭って以後は節を励み、学問を行い、廕により官途に就いた。河東廉訪司事として殺子誣告事件の冤罪を見破り平反した。
  • 河東の饑饉に自らの資財を発して先んじて賑済し、後に公廩を発した。天暦初年(1328年)通政院判となり、陝西諸軍が詔に叛いた際、独り衆を率いて禦ぎ、民のために戦って戦死した。二人の僕も主の後を追い殉じた。至順3年(1332年)嘉議大夫・礼部尚書を贈られ忠を褒された。