出自と世祖への近侍
- 賀勝は仁傑の子で、字を真卿、また舉安ともいい、小字を巴延(バヤン)といい、小字で通称された。許衡に学び経伝の大義に通じ、16歳で宿衛に入り、重厚寡言で世祖に厚く重んじられた。大臣の密奏の際も左右を退けて賀勝だけを留めて聞かせた。
- 至元24年(1287年)納延(ナヤン)の反乱で世祖親征の際、賀勝は帳中に侍し、親王すら近づけない中で戦況を伝えた。矢が帳前に飛び交う中でも動じず立ち侍した。
- 帝が夜間の行軍で寒さに苦しんだ際、自らの衣を解いて温めた。狩猟帰りに獅子舞の伎楽に輿の象が驚き暴走した際、身を挺して象前に立ち防いだ。後続の者が靷を断ち象を放って輿を安んじたが、賀勝は重傷を負った。帝は自ら撫で医師を遣わし、集賢学士・領太史院事に任じ一品服を賜った。
上都留守として
- 盧世榮・僧格(サンガ)の専政期、父仁傑が上都留守として屈しなかったため僧格に狙われ数十の讒奏があったが、帝は聞き入れなかった。至元28年(1291年)僧格が敗れ尚書省が廃され政が中書に戻った際、帝が誰を相にすべきか問うと賀勝は諤勒哲(オルジェイ)を推し、自らは参知政事となった。
- 至元30年(1293年)僉樞密院事、大都護に遷る。大徳9年(1305年)父仁傑の致仕により上都留守・本路都総管・開平府尹・虎賁親軍都指揮使を継いだ。商賈を通じ、豪縦を抑制し、供給に法度を保った。
- 至大3年(1310年)光禄大夫・左丞相・行上都留守を経て開府儀同三司・上柱国を加えられた。奉聖州民高氏の財産を狙った権貴の子弟の強娶を帝に訴えて止めさせた。全州的な飢饉に自らの判断で倉廩を開いて賑済し、罪を待ったが帝は「祖宗が上都の民を卿父子に付したのは民を安んじさせるためだ、卿がよくこれをなせば朕は何を憂えようか」と称賛し、上都の民は祠を立てて徳とした。
特們徳爾との対立と刑死
- 開平の富民張弼の死後、その奴が民の負債を巡り殺人事件を起こし、丞相特們徳爾(テムデル)が賄賂を受けて曲げようとしたが、賀勝は日頃から特們徳爾の貪暴を嫌い、御史中丞楊多爾濟に事情を伝え、監察御史伊嚕音特穆爾・徐元素が丞相を弾劾し賄賂の実を得て奏聞した。帝も特們徳爾を嫌っていたため誅殺しようとしたが、特們徳爾は太后の宮に逃げ込み印綬を奪われるに留まった。
- 英宗即位後の諒闇中に特們徳爾が再び相位に復帰すると、楊多爾濟と中書平章政事蕭拜珠を同日に市で処刑し、賀勝も賜車で詔を迎えた際に不敬とする誣告により殺された。
- 賀勝が死んだ日、百姓は紙銭を持って屍の傍らで哭き悲しんだという。泰定初年(1324年)冤罪が雪がれ、推忠宣力保徳功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を贈られ秦国公を追封、諡は恵愍。至正3年(1343年)さらに推忠亮節同徳翊戴功臣・太師などを加贈され涇陽王に改封、諡は忠宣と改められた。子は惟一(開府儀同三司・中書左丞相・監修国史)と惟賢(太中大夫・同知上都留守司事)、孫の均は太子詹事。