出自と初期の建言
- 王結は字を儀伯といい、易州定興の人。祖父逖勤は質子軍として太祖の西征に従った。太史董朴に経を受け、性命道徳の学に深く通じた。憲使王仁は「公輔の器」と評した。
- 20余歳で執政に上書し、経筵の設置・仁政による民心の結集・英材の育成・守令の選任・賢士への礼遇・冗官の廃止・章程の制定・農桑の重視の八事を陳べたが、宰相は用いなかった。
- 仁宗が潜邸にあったとき宿衛に薦められ、歴代君臣の善悪を日々陳べて仁宗に嘉納された。武宗即位後、仁宗が皇太子となった大徳11年(1307年)、東宮官として典牧太監に任じ、俳優の近侍を戒めて唐荘宗の禍敗を例に諫めた。
地方官と至治年間の建言
- 仁宗即位後、集賢直学士に遷り、順徳路総管として農事・学校・孝弟を興し、鉅鹿・沙河に唐の魏徴・宋璟の祠を建てた。揚州・寧国を経て東昌路では黄河故道の水害対策として斗門を築いた。
- 至治2年(1322年)参議中書省事となり、丞相拜珠に「相たる道は己を正して君を正し、君を正して天下を正すこと、悪を除くにためらわず、服用に驕らぬこと」と説いた。吏部尚書として宋本・韓鏞ら十余人を推薦した。
- 泰定元年(1324年)廷試進士の読巻官、集賢侍読学士として月食・地震・烈風の異変に「朝廷の君子小人が混淆し、刑政不明・官賞太濫のため陰陽が乱れる」と上言、政事を修めて天変を弭ぐことを求めた。経筵の講義で古訓を引き時政の失を証した。
- 浙西廉訪使、遼陽行省参知政事を経て、遼東の大水・米価騰貴に際し数万石の粟の放出を請い、刑部尚書に召された。天暦元年(1328年)文宗即位で陝西行省参知政事、同知儲慶司事、中書参知政事となった。
文宗朝と晩年
- 明宗を朔方に迎立した際は近侍の求職を退け「天子の来るのを待って議す」とした。上都の変で失った皇太子宝の新鋳に際し、近侍が旧制より大きくすることを求めたが「儲嗣に伝わる宝、旧制を越えられぬ」と拒んだ。
- 罪により妻子まで籍没する処置を論駁し、近侍の怒りを買って罷政。集賢侍読学士となるも丁憂により不起。元統元年(1333年)浙西廉訪使を経ず、翰林学士・知制誥同修国史として張起巌・欧陽玄と泰定・天暦両朝実録を修めた。
- 中書左丞として、内宮が慈福殿で仏事を行い火災が起きた際、僧尼の瀆聖を咎めた。左丞相の病篤い際、重囚の赦免を求める家人の請いを退けた。北人は広海へ、南人は遼東へ流す従来の刑法を、千里以内に改める法を建言し制度化した。
- 「古者刑不上大夫」を引き、士の廉恥を養うべきと説き、識者に称賛された。至元元年(1335年)翰林に召されるも病により応じられず、翌年正月28日、62歳で没した。故相張珪は「王結は聖賢の書ならざれば読まず、仁義の言ならざれば談ぜず」と評し、識者の名言とされた。晩年『易説』1巻を著し、臨川の呉澄に称賛された。没後4年5月、資政大夫・河南江北等処行中書省右丞・護軍を贈られ、太原郡公を追封、諡は文忠。詩文15巻が世に伝わる。