出自と礼楽の整備
- 張孔孫、字は夢符。先祖は遼の烏舎部の出。父之純が孔子廟参拝の夢を見て孔孫が生まれたとされる。汴梁陥落後、東平に太常楽師が流寓していたが旧章は散逸し、世祖の命で奉礼郎として楽師を統率し宮縣・文武二舞を整備した。戸部員外郎、南京総管府判官を経て、襄樊攻略時には越境私販の罪人に贖罪の機会を与える策を建言した。
廉直な官歴
- 湖北道提刑按察副使として巴陵の冤罪三百人を減刑。至元22年(1285年)安図が「阿哈瑪特専政十年、迎合しなかったのは劉宣と張孔孫の二人のみ」と評し、礼部侍郎・礼部尚書・燕南提刑按察使を歴任。淮東道粛政廉訪司使として尹執中兄弟の冤罪を晴らした。
- 集賢大学士中奉大夫商議中書省事として和爾果斯の丞相推挙に加わり、地震に応じて八事(窮兵遠討の禁止・濫官の再任禁止・数度の赦宥禁止・献鬻宝貨の禁止・供仏の無益な浪費禁止・豪侈の抑制・冗官整理・太廟祭祀の維持)を条陳した。晩年は翰林学士承旨資善大夫致仕、集賢大学士のまま。大徳11年(1307年)卒、享年75。文学・琴・画・騎射に優れた。