出自と軍功
- 崔斌、字は仲文、馬邑の人。魁偉で騎射に優れ文学にも通じた。世祖が潜邸にあった時に召見され、布琳済達の遊騎に従い淮南に戍り、敵情視察の功で襲撃を成功させた。父の喪を経て金符を襲い総管となり、中統元年(1260年)西京参議宣慰司事に改まった。
- 世祖に「治体を識る漢人」として安図から推挙され、政治の得失を敷陳した。世祖の外出に同行して馬から降り歩従した際、宰相の候補を問われ、安図・史天沢を推薦。世祖はさらに斌自身の推薦の妥当性を近臣に問わせ、衆は万歳を唱え両人が相となった。
地方統治と襄樊攻略
- 左右司郎中として難決の議論を決断力で処理し、阿哈瑪特の財政専断を批判した。至元4年(1267年)東平を守り、至元5年(1268年)南征の軍が民の赤子を投げ捨てた事件で軍法を厳格に適用した。飢饉の際は賦役を免除し楮幣十万緡を得て賑済した。
- 同僉枢密院事として襄樊の役に関与し、鹿門山攻略の策を献じ、屯田の負担軽減や塩券による軍糧調達の策を進言した。至元11年(1274年)河南宣慰司の設立に関与し、巴延の渡江後は湖南平定に参与、行中書省参知政事となった。
- 至元12年(1275年)潭州包囲戦で策を用いて城を落とし、降伏者の助命を主張して虐殺を防いだ。功により資善大夫行中書省左丞に進み、潭州の民に生祠を建てられた。至元13年(1276年)広西撫諭、湖南の反乱鎮圧では首悪のみを誅し脅従者は釈放した。
阿哈瑪特との対立と非業の死
- 至元15年(1278年)召見された際、阿哈瑪特の姦蠹を極言し、世祖は御史大夫姜衛らに調査させて阿哈瑪特の不正を摘発した。江淮行省左丞に転じ、前任の弊政を正したが、阿哈瑪特はこれを恨み、使者を留めて奏上を妨げ、誣告により崔斌を殺害した。享年56。裕宗は箸を投げて悲しんだという。至大初年、太傅開府儀同三司を贈られ鄭国公に追封、諡は忠毅。