出自と民を救う訴訟
- 袁裕は字を仲寛といい、洛陽の人である。幼くして孤となり兄に従い聊城に難を避けたことから家を構えた。稍長すると学を嗜んだ。中統初、聊城県丞から中書右司掾に辟召され、初めて重囚に衣糧・医薬を給し孥産を籍することを免じ焚瘞の銭だけを出させることを建言し、後に令として著された。
- 順天路の民の王住児が闘い誤って人を殺した事件で、その母は年70にして朝に「妾は寡でしかも老い、この子を恃んで生としている。子が死ねば妾も死ぬだろう」と言った。袁裕は執政に「誤って人を殺したのは情が故犯ではない。その母を矜れんで宥すべきだ」と言い、執政がこれを上聞すると帝はこれに従い、囚は死を免れた。南京総管の劉克興が良民を略って奴隷とし、後に矯制の罪を得てその孥産の半分を籍せられようとしたが、袁裕は中書に言上しその家の奴隷だけを籍させて止め、数百人が復して民となれた。
- 至元6年(1269年)、開封府判官に遷った。洧川県達嚕噶齊が貪暴で盛夏に民を役して蝗を捕らせ水を飲むのを禁じたところ、民は忿に耐えられず彼を撃って斃した。有司はこれを大逆に当たるとして極刑に処すべき者7人、連坐者50余人としたが、袁裕は「達嚕噶齊は自ら衆怒を犯して死したのであり、どうしてこれをすべて民の罪に帰することができようか」と言い、首悪者1人だけを誅すべしと議し残りは各々杖打つに留めた。部使者が囚を録するために県に至りその寛大さを疑うと、袁裕はいっそう力めて弁じ、事状を中書に陳べると刑曹はついに袁裕の議に従った。
- 至元8年(1271年)、監察御史を拝し、まもなく旨により西夏中興等路新民安撫副使兼本道巡行勧農副使奉直大夫を授かり金符を佩んだ。時に鄂の民1万余人を西夏に徙し有司が廩食を与えていたが流離顛沛する者がなお多かった。袁裕は安撫使の図吉とともに朝廷に請い丁数を計って地を給し三屯を立てて自ら耕して養わせると官民は便とした。また西夏の羌と渾は雑居し駆良(隷属民と自由民)が弁じ難く、すでに従良の証書を持つ者を検して良民とすべきだと言い、これに従ったところ8千余人を得て官牛を給し力田を農として働かせた。
- 至元13年(1276年)、甘州等路宣撫副使兼西夏中興等路新民安撫副使に進み、翌年、甘州に移鎮した。至元18年(1281年)、南陽知府に調され、翌年、刑部侍郎に召され、出て順徳路総管となった。郡に鉄冶提挙の張鑑がおり子がなく妾を買ったが妻が妬んで殺した。袁裕はその妻を捕らえて訊問し罪に服させた。袁裕は法を用いること平允でしかも疾悪すること少しも貸さぬことこの通りであった。至元21年(1284年)、官途にて卒した。享年59。袁裕はその兄に鞠育の恩があることから、その子の師愈に自らの蔭を推し兄の子の仁師に及ぼした。師愈は後に御史に至った。