元史卷一百七十 列傳第五十七 尚文

尚文は字を周卿といい、代々祁州深沢の人。朝儀の制定に携わり、御史台都事として特済格の陰謀を暴いて皇太子を守った剛直の官僚。黄河蒲口決壊の際には治水策を建言し、後にその見通しが正しかったことが証明された(享年92)。

年表(12件)

出自と朝儀の制定

  • 尚文は字を周卿といい、代々祁州深沢の人であったが、後に保定に徙り籍を占めた。尚文は幼くして穎悟で奇志を抱いた。張文謙が河東を宣撫し、参政の王椅がその才を薦めて掌書記に辟召され、まもなく西夏行中書省に再び辟召された。
  • 至元6年(1269年)、初めて朝儀が立てられ、太保の劉秉忠が世祖に「尚文と諸儒に唐の開元礼と近代の礼儀の今行うべきものを採らせ斟酌損益させるべき」と言い、文武の儀仗・服色の差等はみな尚文が掌った。至元7年(1270年)春2月、朝儀が成り百官が肄習すると、帝はこれを臨観して大いに悦び定制とした。冬11月、侍儀司が立てられ右直侍儀使に擢けられ、司農都事に転じた。
  • 至元17年(1280年)、輝州守として出た。時に河朔は大旱であったが輝州だけは禱って雨を得て境内は大稔した。懐孟の民の馬氏・宋氏は殺人の罪を誣告により久しく獄が決しなかったが、提刑使者は尚文に讞して報告するよう命じ、尚文は迹を推し情を究めて獄吏・獄卒の羅織した状を得て両獄ともに釈した。至元19年(1282年)、戸部郎中に進み懐衛竹税提挙司の廃止を奏し、民はこれを便とした。

特済格弾劾と太子擁護

  • 至元22年(1285年)、御史台都事を除された。行台御史が封事を上げ「上は年齢が高いので皇太子に禅位すべきだ」と言うと、皇太子はこれを懼れ、中台はその章を秘して発しなかったが、特済格阿薩爾らはこれを知り、内外百司の吏案を収め天下の埋没した銭糧を大索することを請いつつ、実はその事を発しようとし、御史台の吏案をことごとく封じ、尚文がひそかに留めていた秘章を渡さなかった。特済格はこれを帝に聞かせ宗正の色徹肯にその章を取らせようとした。
  • 尚文は「事は急だ」と言い、御史大夫に「これは上を危うくし太子を廃し下は大臣を陥れ天下の民に流毒せんとするものであり、その謀は最も奸である。しかも特済格はアフマドの余党であり贓罪が狼藉している。まず発してその謀を奪うべきだ」と白した。大夫はついに丞相と議し入って帝に状を言上した。帝は怒って「汝らに罪はないのか」と言うと、丞相は「臣らは罪を逃れるところはございません。しかしこの輩は名が刑書に載る者たちであり、この挙は人心を動揺させています。重臣を選んでその長とし紛擾を靖めるべきです」と進言し、帝の怒りはやや解け奏に従った。
  • まもなく特済格は人の金を受けその党とともに姦贓の罪に坐して死罪となった。その機はすべて尚文が発したものであった。大司農丞に陞り少卿に転じ、吏部侍郎に遷り、江南湖北道粛政廉訪使に改まった。至元31年(1294年)、刑部尚書として召された。元貞初、中台侍御史を拝した。時に行台御史および浙西憲司が江浙行省平章の不法事17件を弾劾すると、制により尚文を遣わしてこれを詰問させたが、左験は明著しているのになお力めて争って服さなかった。尚文はこれを上聞したが平章は御史が制に違って軍鎮の防鎮軍数を取り会したと言い、成宗は省台大臣に雑議させた。
  • みな「平章は勲臣の後であり犯したところは軽い、宥すべきだ。御史が軍数を取り会したのは法により死に当たる」と言ったが、尚文は「平章の罪状は明白であり簿責を受け入れないのは臣たる礼がなく、その罪は軽くない。御史は糾事の官であり兵卒が帥を争い愬えたことから、その均役の情を籍めたのであれば、たとえ罪があってもそれは軽い」と抗言した。廷辯すること数回に及び省台と共に入奏すると、帝の意はようやく悟り、平章と御史はそれぞれ杖で処分された。尚文はその守正不阿はこの類である。

蒲口決河の治水論

  • 元貞2年(1296年)、治平の世にしばしば赦を行い不急の役を行うべきではなく停罷すべきだと建言し、みな成宗に嘉納され、河北河南粛政廉訪使を授かった。大徳元年(1297年)、黄河が蒲口で決すると台が檄を出し尚文に防河の策を按視させた。尚文は建言し「長河万里は西から来てその勢いは湍猛であり、孟津から下ると地は平らで土は疎く、移徙が定まらず禹の故道を失うことが中国の患いとなって幾千百年になるか分からない。古より治河の場所を得るのが適当であれば力を用いること少なくして患いは遅く、事がその宜しきを失えば力を用いること多くして患いは速い。これは動かせない定論である」と述べた。
  • 「今、陳留から睢まで東西百有余里に、南岸の旧河口11のうち塞がったもの2、自ら涸れたもの6、通川するもの3で、岸の水より高いことは計6、7尺、あるいは4、5尺。北岸の故堤はその水より田が高いこと3、4尺、あるいは高下等しい。概して南は北より約8、9尺高い。堤がどうして壊れずにいられようか、水はどうして北に行かずにいられようか。蒲口は今1000余歩決れて迅速に東行し、河の旧瀆を得て200里を行き歸徳の横堤の下に至れば正流に復合する。強いて湮遏すれば上決下潰し功は成らない。今の計として揆るに、河北の郡県は水の性に順って遠く長垣を築いて泛濫を禦ぎ、歸徳・徐州・邳州の民は衝潰を避け安便に従わせ、被患の家には河南の退灘の地内に頃畝を給付して永業とすべきである。異時、他所で河が決れば、これもまた同様にすべきである。よくこれを行えれば一時の救患の良策となろう。蒲口は塞がなくてよい」と述べた。朝廷はこれに従った。
  • ちょうど河朔郡県・山東憲部が争って「塞がなければ河北の桑田はことごとく魚鱉の区になる。塞ぐべきだ」と言い、帝は再びこれに従った。翌年、蒲口は再び決した。塞河の役は歳ごとに行われぬことがなかった。その後、水は北に入り復た河の故道に戻り、結局尚文の言う通りとなった。
  • 大徳3年(1299年)、山東憲使に調され、行省参知政事・行御史台中丞を歴任した。大徳7年(1303年)、資善大夫中書右丞として召し拝され、浙西の饑饉に対し廩を発しても足りず民に粟を入れさせ官を補する募をもって賑わせた。山東の歳凶で盗賊が竊発すると、鈔850余万貫を出してこれを弭めた。10道の使者を選び天下を巡行させ民の疾苦を問うことを奏請し、また南方の白雲宗を斥け罷めることを奏して民と賦役を均しくした。
  • 西域の賈人が珍宝を進んで售ろうとし、価60万錠であったとき、省臣の平章が尚文を顧みて「これはいわゆる雅庫特(ヤークート、宝石)の大珠である。60万で酬えるのは過ぎることではない」と言い、一坐に伝えて玩ばせた。尚文が何に用いるかを問うと、平章は「これを含めば渇かず、面に熨すれば目に光を持たせられる」と言った。尚文は「一人が含めば10万人が渇かないというなら、まことに宝である。もし一つの宝が一人しか済えないなら用は微小なものだ。私のいう宝とは米粟のことだ。一日食べなければ饑え、三日食べなければ病み、七日食べなければ死ぬ。あれば百姓は安んじ、なければ天下は乱れる。功用をもって比較すれば、あれより勝らないだろうか」と言った。平章は固く見ることを請うたが、尚文は結局動じなかった。

晩年

  • 享年69で疾により告老し帰った。10年後、昭文館大学士中書右丞商議中書省事を拝したが召されても起たなかった。武宗・仁宗の代にしばしば延致して国事を訪ね、燕や金帛を賜り加えられ、進階は光禄大夫から銀青栄禄大夫となり中書左丞のまま田里に還ることを乞うた。延祐6年(1319年)、太子詹事を拝し使者を3度遣わされてようやく起った。仁宗は尽言をもって太子を教えるよう命じ殊礼をもって待った。泰定3年(1326年)、中書平章政事をもって致仕し、翌年、家で卒した。享年92。