元史卷一百六十九 列傳第五十六 王伯勝

出自と拱衛直の粛清

  • 王伯勝は霸州文安の人である。兄の王伯順は内廷に給仕し世祖に親幸された。これにより伯勝も入見し宿衛に命じられた。時に伯勝は年11、広顙巨鼻で状貌は屹然としていた。帝は伯順を顧みて「この子はまさに卿に勝るだろう。伯勝と名付けるがよい」と言った。しかし帝がかつて盥水を沃したとき温冷が甚だ旨に称い、進水したのは誰かと問うと、内侍の李邦寧は「伯勝です」と言い、帝は「この子は他日必ず政を知り人情に達するだろう」と言った。
  • 至元25年(1288年)、納顔征伐に従い功により朝列大夫拱衛直都指揮使を授かった。元貞元年(1295年)、金虎符を賜り嘉議大夫に進階し、また通議大夫に進んだ。初め拱衛直は教坊衛卒に隷し市井無頼の徒が名を竄して宿衛していることが多かったが、伯勝が指揮使となるとみな良家子を募って易えた。大徳5年(1301年)、上都に扈従したとき天が久しく雨であり、夜、城の西北で戦鼙のような音が聞こえた。伯勝は衛卒百人を率いて出て視ると大水が暴至しており、直ちに畚鍤を具え土石氊罽を集めて門を塞ぎ、壕隍を分決してこれを泄させ、勢いは朝に至って収まったが民はこれを知らなかった。丞相の諤勒哲がこれを聞かせると帝はこれを嘉した。
  • 大徳9年(1305年)、成宗の疾に侍したことにより安西王に忤い、出て大寧路総管となり、伯順もまた出て梁王傅となった。武宗が即位すると通奉大夫大宗正府伊克扎爾古齊刑部尚書を拝した。至大2年(1309年)、右丞を加え、翌年、銀青栄禄大夫大都留守兼少府監に進んだ。初め大都の土城は毎年葦を衣して雨を禦いでいたが、日が久しくなるにつれ土がさらに堅くなり労費がいよいよ増したため、伯勝はこれを罷めることを奏した。
  • 仁宗が即位すると百官の品秩を正し、資徳大夫に降授されたが、まもなく再び栄禄大夫に陞り遼陽等處行中書省平章政事を拝した。遼陽省治の懿州は敝陋で民は学を知らなかったが、伯勝が至ると郡学の弟子員を増やし、賢師を選んでこれを教えた。使客が至ると舎るところがなく皆民に館っていたので民はこれに苦しんだが、伯勝は隙地を択んで館廐を作り、閑田百頃を度って民を募って耕種させ廪餼をもってこれを養った。歳が大旱すると伯勝は斉戒して禱り、禱り終わるとすぐに雨が降り、人はこれを「平章雨」と呼んだ。
  • 延祐2年(1315年)、召されて大都留守となったが、遼陽の民はその行事を状べ中書に留任を乞い上げたが報われなかった。民は涕泣して去った。延祐3年(1316年)、特に銀青栄禄大夫を授けられ、至治2年(1322年)、金虎符を賜り武衞親軍都指揮使兼大都屯田事を授かり、なお大都留守を務めた。詔により文武楼の監修、咸寧殿の創建、太廟の建立を奉じた。泰定3年(1326年)冬、疾により卒した。翊忠宣力保恵功臣太保金紫光禄大夫上柱国を賜り、薊国公に追封された。諡は忠敏。
  • 長子の恪は初め安図と名付けられ、累官して兵部尚書南台治書侍御史僉宣徽院事に至った。次子の瑪勒は宣武将軍として武衛親軍都指揮使を襲いだ。孫の善果は伯順の官を襲いで大司徒に至った。