元史卷一百六十九 列傳第五十六 張九思

出自と皇太子への忠誠

  • 張九思は字を子有といい、燕の宛平の人である。父の張滋は薊州節度使であった。至元2年(1265年)、張九思は入って宿衛に備え、裕皇(裕宗)が東宮にあると一見して奇とされ、父の廕により外官に補されるべきところ特に留められ遣わされなかった。江南がすでに平定されると、宋の庫蔵の金帛は内府に輸されまた東宮に分授されるものも多く、都総管府を置いてこれを主どらせた。張九思は工部尚書としてその府事を兼ねた。
  • 至元19年(1282年)、世祖が上都に廵幸すると皇太子はこれに従い、丞相の阿哈瑪特が留守した。妖僧の高和尚・千戸の王著らはこれを殺すことを謀り、夜、数百人を聚めて儀衞を装い太子を称して健徳門に入り、直ちに東宮に趨り令を伝え関を啓くこと甚だ急であった。張九思はたまたま宮中に直宿し、主る者に擅に関を啓かせぬよう命じ、語は高觿伝にある。賊は紿けないことを知り垣に沿って南門に趨り、外に丞相阿哈瑪特・左丞郝禎を撃殺した。
  • 時に変が起こり卒然として、しかも昬夜で衆はどうすべきか分からなかったが、張九思はその詐りを審らかにし宿衛士を叱咤して力を併せて賊を撃たせ、ことごとくこれを獲た。賊が入るとき太子の命を矯り兵を樞密副使の張易に徴した。張易は審らかにせずすぐさま兵を彼らに与えた。張易はすでに誅に坐した後、刑官はまた知情の罪をもって首を四方に伝えようとしたが、張九思は太子に「張易は応変が不審であり、賊に兵を授けたことは死してもなお辞せぬところですが、もし坐すべきは同謀とすることになれば過ぎたるものです。伝首を免ずるよう乞います」と啓し、皇太子は帝に言上し、その通りとされた。
  • 張九思が賊を討つとき、右衛指揮使の顔進が行中で流矢に当たり卒したが、怨家がこれを賊党と誣告しその孥を籍しようとしたが、張九思はこれを弁じ坐せずに済んだ。阿哈瑪特が敗れると和爾果斯が右丞相を拝し中書の庶務は更新され、用人には多く推薦するところがあった。この年冬、詹事院が立てられ張九思は丞とされ、名儒の上党の宋道、保定の劉困、曹南の𤓰爾佳之奇、東平の李謙を挙げて東宮官属に分任させた。至元22年(1285年)、皇太子が薨じると朝議は詹事院を罷めようとしたが、張九思は「皇孫は宗社・人心の帰するところであり、詹事は道徳を輔成するためのものだ。どうしてこれを罷められようか」と抗言し、衆はこれを允とした。
  • 至元30年(1293年)、中書左丞兼詹事丞に進拝した。翌年、世祖が崩じ成宗が嗣位すると詹事院を徽政に改め張九思をその副使とした。11月、資徳大夫中書左丞に進み、世祖・裕宗実録を修めるにあたり史事を兼領するよう命じられた。大徳2年(1298年)、栄禄大夫中書平章政事を拝し、大徳5年(1301年)、大司徒を加え、大徳6年(1302年)、光禄大夫に進階し薨じた。享年61。子の金戒努は光禄大夫河南省右丞。