出自と医術による功績
- 許国禎は字を進之といい、絳州曲沃の人である。祖父の許済は金の絳州節度使、父の許日厳は榮州節度判官で、みな医を業とした。許国禎は経史に博通し特に医術に精しかった。金の乱に嵩州永寧県に避地し、河南平定後は太原に寓した。世祖が潜邸にあったとき、許国禎は医をもって徴され瀚海に至り、医薬を掌るために留まった。
- 荘聖太后が疾を患うと許国禎がこれを治し、期を刻んで癒えたため、宴を張り座を賜った。太后は時に年53、白金鋌をその歳数に応じて賜った。世祖の妃が目を患い、治療者が誤って鍼でその明を損ねると、世祖は怒って死罪に処そうとしたが、許国禎は従容として諫め「罪は固より死に当たりますが、その情を原ねれば恐怖・失次によるものです。すぐに誅すれば、後に誰があえて進んで治療しましょうか」と言い、世祖は意を解き、なお彼を奨めて「国禎の直言は諫官たり得る」と言った。
- 宗王の実保はしばしば許国禎を自分の帳下に隷させることを請うたが、世祖はその請を重んじつつ遣わそうとすると、許国禎は「国禎は恩を蒙って抜擢され、心を尽くして報いることを誓っており、あえて事える相手を易えません」と辞して結局遣わされなかった。世祖は飲馬湩を過ぎて足疾を患ったとき、許国禎が味の苦い薬を進めると却けて服さなかったが、許国禎は「古人に『良薬は口に苦くとも病に利あり、忠言は耳に逆らえども行いに利あり』の言葉があります」と言った。まもなく足疾がまた発すると許国禎を召して視させ、世祖は「汝の言を聴かなかったせいで、果たしてこの病に困った」と言った。許国禎は「良薬苦口はすでに知っておられるはず。忠言逆耳もどうか留意ください」と答えると、世祖は大いに悦び七宝馬鞍を賜った。
- 憲宗3年癸丑(1253年)、雲南征伐に従い機宻に参与し朝夕左右を離れなかった。何かの都合で来られないときは帝はそのために不悦であった。憲宗9年己未(1259年)、世祖は師を率い鄂州を囲み宋人数百族を獲た。諸将はことごとく坑にしようとしたが、許国禎は力めて請いその兇暴な者だけを誅し残りはみな免れさせた。師が還るとき降民数十万口を招くと疲餓顛仆する者が道に満ちたので、許国禎は蔡州の軍儲糧を発して賑わせることを白し、多くの人命を救った。世祖が即位すると前の功労を録し栄禄大夫提点太医院事を授かり符を賜った。至元3年(1266年)、金虎符に改授された。
礼部尚書としての活躍
- 至元12年(1275年)、礼部尚書に遷った。許国禎はかつて上疏し「財賦を慎み、服色を禁じ、法律を明らかにし、武備を厳しくし、諫官を設け、衞兵を均しくし、学校を建て、朝儀を立てる」ことを言い、事は多く施行された。挙引したのはみな知名の士であり士もまた重んじた。帝は近臣と勲旧大臣に及んで語るとき許国禎に「朕が昔出征し艱難を共にしたのは卿ら数人だけであった」と言った。ついに集賢大学士を拝し光禄大夫に進階した。毎に進見すると帝は「許光禄」と呼び名を呼ばなかった。これにより内外の諸王大臣もみな許光禄と呼んだ。翰林集賢大学士に陞り、享年76で卒した。
- 時に大臣で勲徳がなければ帝に知られる者は稀で贈謚を得ることは少なかったが、特に許国禎には金紫光禄大夫を贈られ諡は忠憲とされ、人々はこれを栄とした。後に推誠広徳協恭翊亮功臣翰林学士承旨上柱国を加贈され、薊国公に追封された。
- 初め許国禎の母の韓氏もまた医に能じ荘憲太后に侍り、また食味の調和に善く旨に称った。四方から献じる珍膳・旨酒はみなこれを掌るよう命じられた。太后はその労を閔れ真定の宅一区を賜り歳ごとに衣廪を終身給わせた。許国禎はこれにより家を構えた。子の扆。
許扆――世祖・成宗に仕えた忠臣
- 扆は字を君黼、一名を和爾果斯といい、父の許国禎に従って世祖に潜邸で仕え、進退は荘重で世祖はこれを喜んだ。今の名を賜り、許衡に学ばせ、宿衛に備えさせた。忠慎小心であったが、かつて事により旨に忤い罪せられそうになったとき、帝は後悔して近侍の特爾格に「朕は和爾果斯を罪しようとしたが、汝はなぜ言わなかったのか。汝ら二人は今から兄弟となり、譴責されそうなことがあれば互いに諫めよ」と言い、金酒に置いて二人に飲ませ盟とさせた。時に裕宗が東宮にあり、帝はまた和爾果斯に「もし太子が罪を犯したら、汝は誰に諫めさせるのか」と諭し、東宮臣の慶善努にも同じ金酒を飲ませた。まもなく礼部尚書提点太医院事を除された。
- 日月龍鳳文綺の衣二襲を賜った。毎に外国使が至ると必ず彼に語らせ、辞理明弁で服さぬ者はなかった。尚医太監に改まり、帝はかつて画工にその像を写させ賜った。正議大夫に転じ、なお提点太医院事を務めた。大安閣の礼神の幣を竊む者がおり誅そうとしたが、群臣はあえて言わなかったところ、和爾果斯だけが「神を敬うのは善事です。それによって人を死地に置けば、臣は神がその祭を享けないことを恐れます」と諫めると、帝は即座にこれを釈した。
- 和爾果斯は丞相の安図と国政を善くし賛益するところが多かった。僧格はこれを忌み、しばしば上に譛言したが帝は信じなかった。僧格が敗れると左腋門に繋がれると、帝は和爾果斯にその面に唾しに行くよう命じたが辞して不可とすると、帝はその仁厚を称え白玉帯を賜り「汝の明決に瑕がないことがこの玉に類することから、これを賜るのだ」と諭した。
- 成宗が即位すると中書右丞に遷り太常卿を行ったが力めて辞し、中書右丞をもって太常事を署するよう命じられた。まもなく陝西行中書省右丞に改まった。時に関中で饑饉があり倉粟を発して賑わせることが議されたが、同列は朝廷の請を得ていないため不可とした。和爾果斯は「民惟邦本、今このように饑えているのに、命が下るのを待てば間に合わない。擅に発する罪は私一人が任じ、諸公を累わせない」と言い、遂に大いに粟を発し数日を経ずして命も下った。翌年、旱があり終南山に禱ると雨が降り、歳は大熟した。民はみな画像を作りこれを祀った。
- 和爾果斯は生業に携わらず、田宅はみな上より賜ったものであった。足疾があり歩けなくなると、仁宗は先朝の老臣として特に小輿に乗って禁中に入ることを勅許し、旧事を訪ねた。後に足がさらに弱くなり出られなくなると、毎に国に大政あるごとに近侍を遣わしその家に問わせた。特に栄禄大夫大司徒を授け、終身その禄を食ませ、没すると推忠守正佐理功臣光禄大夫陝西等處行中書省平章政事柱国を贈り、趙国公に追封された。諡は僖簡。