出自と早年の治績
- 陳祐は一名を天祐といい、字は慶甫、趙州寧晉の人である。世々農を業とし、祖父の陳忠は経史を博究し、郷党はみな尊んで師とした。没すると門人は謚して茂行先生とした。陳祐は幼くして好学であったが家は貧しく、母の張氏はかつて髪を剪って書に易え読ませたので、成長して経史に博通した。
- 諸王が自ら官属を辟召できた時代、癸丑の年、穆王府は陳祐をその府の尚書に署し、父母に銀十鋌・錦衣一襲を賜った。王が陝洛に土を分けると、陳祐は河南府総管に表され、着任の日にまず金末の名士の李国維・楊杲・李㣲・薛元咨を礼し、治道を訪ねて古今を商議し、征西軍数百家の免除や椒竹諸税糧料等銭の免除など便民二十余事を上奏し、朝廷はみな従った。
- 世祖が即位して陝洛を河南西路に分けると、中統元年(1260年)、陳祐は真に総管に除された。時に州県官は俸給が未給で貪暴が多かったが、陳祐だけは清慎をもって称され、在官8年間、着任時と変わらなかった。至元2年(1265年)、官法が施行されると南京路治中に改まった。ちょうど東方に大蝗が発生し徐州・邳州が特に甚だしく、捕蝗が急に責められた。陳祐は民丁数万人をその地に引き連れ、左右に「蝗を捕らえるのは稼を傷つけるのを慮ってのことだ。今、蝗はすでに盛んだが穀はすでに熟している。早く刈らせる方が力を省いて得るものがある」と言った。専擅にかかわるという意見もあったが、陳祐は「民を救って罪を得るのも甘んじて受ける」と言い、これを諭してすぐに散らせたので、両州の民はみなこれに頼った。
- 至元3年(1266年)、朝廷は陳祐が名もなく降官されたことから虎符を賜り、嘉議大夫衛輝路総管を授けた。衛は四方の要衝に当たり治め難いことで知られたが、陳祐は法令を申明し、孔子廟を創立し比干墓を修め、朝廷に請うて祀典に著した。去官後、民は碑を立てて徳を頌えた。かつて世祖に上書し、太平の本を樹てるには三つあると言った。一は太子を国本とし建立は早くすべきこと、二は中書を政本とし責成は専らにすべきこと、三は人材を治本とし選挙は審らかにすべきこと。事は尽く行われなかったが、時論はこれを称えた。
尚書省設立をめぐる論争
- 至元6年(1269年)、提刑按察司が置かれ、まず陳祐は山東東西道提刑按察使となった。時に中書・尚書二省が並立し、世祖はその煩わしさを厭い、一つに合わせようと大臣に雑議させた。陳祐が帰朝すると議に参らせられた。阿哈瑪特(アフマド)は尚書平章政事となり中書右丞相に陞ることを奏そうとし、安図を太師として中書省を罷めようとした。陳祐に異議があるのを懼れ、尚書参知政事に進めて誘おうとした。入議に及び、陳祐は「中書は政本であり祖宗の立てたところ、罷めてはならない。三公は古官で今その虚位を存すだけで、まだ設けるには及ばない」と極言し、遂に阿哈瑪特は罷められた。
- 阿哈瑪特はその抵抗を怒り、陳祐を僉中興等路行尚書省事に除した。西涼は永昌王府に隷し、その達嚕噶齊と総管は人に誣搆され家がおよそ100余口、王はみな法に致そうとしたが、陳祐は力めてその冤を弁じ、王が怒り甚だしく陳祐が議を固く執ると、王もついに悟り2人ともに免れた。彼らは陳祐に泣いて「公は再生の父母です」と言った。
- 朝廷が宋征伐の大挙をなすと、陳祐は山東で軍を僉するよう遣わされた。民が多く逃匿していたが、陳祐が来ると聞いて「陳按察が来るなら必ず私がない」と言い、みな出て期に応じて事を弁じた。至元13年(1276年)、南京総管兼開封府尹を授かった。吏は震懾し失措することが多かったが、陳祐は「何もそれほど恐れることはない。前に盗跖であっても今顔子であれば、私は顔子として遇する。前に顔子であっても今盗跖であれば、私は盗跖として遇する」と言った。これにより吏は修飭を知り、あえて法を弄しなくなった。許蔡の間に巨盗が衆を集め劫掠していたので、陳祐はこれを急ぎ捕らえたが、宋の境に逃げ込んだ。宋が亡んで制置の夏貴に随って汴を過ぎると、陳祐はこれを馬から引きずり下ろし市で打ち殺し、民間は帖然とした。
浙東での客死
- 至元14年(1277年)、浙東道宣慰使に遷った。時に江南は初めて附いたばかりで、軍士が俘虜とした温州・台州の民男女数千口を、陳祐はことごとく奪い返した。まもなく行省が民商の酒税を榷そうとしたので、陳祐は「兵火の後の傷残の民は寛恤に従うべきだ」と請うたが報われなかった。
- 陳祐は慶元・台州の民田を検覆するよう遣わされ、新昌に至った際、玉山郷の盗賊に不意を突かれ備えができず、遭害した。享年56。詔により推忠秉義全節功臣江浙等處行中書省左丞を贈られ、河南郡公に追封された。諡は忠定。父老は会稽への留葬を請うたが叶わず、祠を立てて祀った。
- 陳祐は詩文に能じ『節斎集』がある。子の陳夔は芍陂屯田万戸で、初め揚州にあったとき陳祐が盗に遭って死んだと聞き、行省に父の讐を復すことを願い出て、賊魁を擒えて紹興の市で戮した。臯昌国州知州・奭は侍儀司通事舎人。孫の思魯は芍陂屯田万戸を襲ぎ、思謙は湖広行省参知政事となった。弟の天祥。
陳天祥――出自と学問、興国軍統治
- 天祥は字を吉甫といい、兄の陳祐が河南に仕えたことにより寧晉から洛陽に家を徙した。天祥は幼くして軍籍に隷し騎射に善じた。中統3年(1262年)、李璮が済南に叛拠し宋と結んで外援としたとき、河北河南宣慰司は制を承けて天祥を千戸とし、三汊口に屯して防遏させた。宋兵の事が平定すると罷めて帰り、偃師の南山に居り田百余畆を有し躬耕読書した。従学する者は多く、その居が緱氏山に近いことから緱山先生と号された。
- 初め天祥はまだ学んでおらず、陳祐もその才を奇とはしていなかったが、別れて数年後、天祥は自らの詩を陳祐に献じた。陳祐はこれを他人が代筆したと疑ったが、語り合うと経史に出入し談弁が該博で、大いに異とした。至元11年(1274年)、従仕郎郢復州等處招討司経歴として起用され、国兵の渡江に従い、軍中の事を論じて行省参知の賈居貞に深く器重された。
- 至元13年(1276年)、興国軍が籍兵器のことから乱を致すと、行省は天祥に本軍事を権知させた。天祥は軍士わずか10人を率いて境に入り、城を去ることおよそ百里で2日にして城中に至ると、父老が来謁したので、天祥は「郷井を捍衛するのに兵を無くすことはできないが、任事者が籍を過当にしたため乱を致した。今、汝らに兵仗を権置して自衛させたらどうか」と諭すと、民はみな便とした。行省に事を条陳し「奸邪を鎮遏するには根本を実にすべきである。もし内に備禦の資がなければ外に窺覦の釁を生じるのは理勢の必然である。この軍変の乱の故を推すに、まさに当時の処置が宜しきを失し、外に疎で内に急にしたことにあり、軍中にある者はみな寸鉄尺杖すら手にできなかったため、奸人が竊発する隙を得て公私ともにその害を被った。今、軍中は再び残破を経て単弱がここに至っており、もしなお互いに防いで保信しなければ、外冦だけでなく舟中の人もみな敵国になりかねない。むしろ赤心を人に布いて、戮力同心し禍福を均しくすれば、人は我が人となり兵は我が兵となる。乱を靖め奸を止めるのに施せぬことはない。ただ少し優容を加え、その必成の効を責めることを望む」と述べ、行省は便に従うことを許した。
- 天祥の設施はみな衆望に合い、これにより流移した者が復業し、隣郡から帰る者も相次いだ。茅を伐り木を斬って結屋させ、十家を一甲としその甲に長を置き、兵禁を弛めて民の便に従わせた。人心はすでに安んじ軍勢はやや振るい、土兵を用いて李必聡の山寨を収め一人も殺さなかったため、他の山寨はこれを聞いて各自散っていき、境内は悉く平定した。時に州県の官吏は未だ俸禄がなかったが、天祥は便に従い規措して月給を与え、その貪を止めた。
陳天祥――夀昌府での平定と鄂州の危機回避
- 民は擾されぬよう用いられた。隣邑の分寧が変を起こし、諜者がしばしば至ったので吏は捕らえることを請うたが、天祥は「彼らが官吏の貪暴を理由に叛いたのに、今、我が一軍三県は官に侵漁がなく民はその業を楽しんでいる。彼らに帰ってこれを告げさせれば謀った者はかえって我が用となる」と言い、一切問わなかった。敗れて興国境に逃げ入った者数千人に対し、天祥は口数を検して糧を給し、土人に侵陵しないよう戒め、事が定まると保全して帰ることができた。皆その威信に服した。
- 一年余り経つと、詔により本軍を路に改め、天祥に代わって総管となった者が旧政の変更に務め兵を隠匿した者を厳しく取り締まった。天祥が去って間もなく興国は再び変を起こし、隣郡の夀昌府や江南北の諸城邑が乗じて守将を殺すことが多く生じた。時にまさに行省を宣慰司に改め、参政の呼圖克特穆爾・賈居貞・万戸の鄭鼎臣が宣慰使とされていたが、鄭鼎臣は兵を率いて討伐に向かい樊口で敗死し、黄州は声を挙げて陽羅堡を攻めると言い、鄂州は大震した。時に呼圖克特穆爾は恇怯して敢えて兵を出さなかったが、天祥は賈居貞に「陽羅堡は山に依って塁を成し、常に厳備がある。彼らが攻めてくれば我の利となる。しかも南人は浮躁で軽進易退、官兵は高きに拠り険を占め、区区の烏合の衆と戦えば二三日で死傷が多く、逃亡する者は十のうち八九となるだろう。我らが精兵を出して撃てば、疾走できる者だけが脱することができる。この一勝に乗じれば大勢はすでに定まり、その後、黄州・夀昌を取るのは摧枯拉朽のようなものだ」と言い、賈居貞は然りとしたが、呼圖克特穆爾はなお決めかねていた。呼圖克特穆爾が陽羅堡に至ったと聞くと、賈居貞は力めてこれを促し、兵を引いて青山に宿営させ、翌日、その衆を大破した。すべて天祥の予想したとおりであった。
- 初め行省は変事を聞き、鄂州城中の南人をことごとく捕らえ内応を防ぐため殺そうとしたが、賈居貞が救おうとしても叶わなかった。天祥は「この州の人は彼らと本来接触がなく、殺そうとする者はその財を利するのみだ」と言い、力めてこれを止め、捕らえられていた者はみな縦された。天祥は再び夀昌府事を権知するよう遣わされ兵200余人を授けられた。乱を起こした者たちは官軍が来ると聞いてみな城を棄て険に依り自ら保った。天祥は衆寡が敵わないので力で服することはできないと考え、その徒を諭して各々田里に帰らせ、ただその首領の毛遇順・周監だけを生擒し鄂州市で斬った。金200両を得たが、鄂州商人の物と知り、召してこれを還した。その党の王宗一ら13人も続いて擒えられたが、冬至の日をもって放って家に還らせ、3日後に来て帰ることを約束させると、獄囚はみな期のとおりに至った。宣慰司に報告してことごとく縦されると、これより再び叛く者はなくなり、百姓は生祠を立てた。
陳天祥――盧世栄弾劾
- 至元21年(1284年)3月、監察御史を拝した。ちょうど右丞の盧世栄が掊克聚斂により俄かに執政に陞り権が一時を傾け、御史中丞の崔彧がこれを言上すると帝は怒って法に致そうとしたが、盧世栄の勢燄は益々張り、左司郎中の周戭が議事にわずかに可否をつけただけで、盧世栄は法を沮んだと誣告し杖百のうえ斬らせるよう奏した。これにより臣僚は震懾しあえて言う者がなかった。
- 至元22年(1285年)4月、天祥は上疏して盧世栄の奸悪を極言し、その大略は「盧世栄はもとより文芸も武功もなく、ただ商販で得た資をもって権臣に趨附し入仕を求め、輿贜輦賄を権門に輸送した。献じたもので足りぬときは別に欠少の文券を立て銀1000錠を負い、白身から江西榷茶転運使に擢けられると、専ら貪饕を務め犯した贓私は動くと万を数えた。その隠祕なものは尽く挙げがたいが、発露したものだけを明言すれば、掊取した人と盗んだ官物を計るに、鈔にして25119錠、金にして25錠、銀にして168錠、茶にして12458引、馬にして15匹、玉器7事に上り、その他繁雑な物件もこれに準ずる。すでに追納したものと未納で追及中のものは人の共に知るところ、今なお前非を悔いず狂悖はいよいよ甚だしく、苛刻を自安の策とし、誅求を干進の門とし、既に無饜の心を懐き攘掊の計を広く蓄え、しかも要路に当たり重権を握り、位は丞相の下にありながら朝省の大政は実に専らにしている。これはまさに盗跖に阿衡の任を掌らせるようなもので、当代に流殃を止めぬのみならず将来に取笑を招くだろう」というものであった。
- 天祥は続けて「国家と百姓は上下一体で、民は国の血気、国は民の膚体である。血気が充実すれば膚体は康彊であり、血気が損傷すれば膚体は羸病する。血気を耗して膚体を豊栄にできた例はいまだない。故に民が富めば国は富み、民が貧しければ国は貧しく、民が安ければ国は安く、民が困れば国は困る。その理はこの通りである。昔、魯の哀公が民から重く斂ろうとして有若に問うと『百姓が足りていれば君はどうして不足しよう、百姓が足りなければ君はどうして足りよう』と答えた。これをもって推すに、民は必ず賦が軽くて後に足り、国は必ず民が足りて後に豊かになる。書に『民惟邦本、本固邦寧』とある。歴代の前例を考えるに、百姓が富安であったために乱を致し、百姓が困窮であったために治を致したという例は、天地が開けて以来聞いたことがない。財とは土地が生じ民力が集めたもので、天地の間には歳ごとに常数があり、それを取るのに節があってこそ用いても尽きない。今、盧世栄は一歳の期をもって10年分の積を致そうとし、万民の命を危うくして一己の栄を広め、増羨の功を邀めて顛連の患を恤まず、目先の誅求を取っては上下を交々征し、民を讐のごとく視て国のために怨みを斂めている。果たして国家の逺慮のためではなく、ただ目前の速効を取ろうとするだけである。任事してからおよそ100余日、事跡はすでに顕明である。その行ったことと言ったことがすでに符合しない点をいくつか挙げれば、始めは鈔法を旧のごとくできると言ったが鈔は今すでに虚しくなり、始めは百物が自ら賤くなると言ったが物は今いよいよ貴くなり、始めは課程を300万錠増やせて民から取らずに弁じると言ったが今は諸路の官司を迫脅して増数を包認させ、始めは民を快楽にさせられると言ったが今行っていることはみな敗法擾民のことばかりだ。もし早くに更張しなければ、自ら敗れるのを待つほかなく、蠧を除いても木の病はすでに深く、曲突徙薪を嫌えば焦頭爛額を見るに終わる」と述べた。
- 天祥は続けて「臣もまた権要に阿附すれば栄寵を期せることも、重臣に違忤すれば禍患を測れないことも知っている。緘黙して自ら固めるのはできないわけではないが、事は国家に闗係するところ浅からず、憂深く慮切ゆえに言わずにはいられない」と結んだ。世祖はその言を聞き、使者を遣わして天祥と盧世栄を共に上都に召し面質させた。至ると即日、内官が旨を伝え盧世栄を縛らせた。翌日、入対すると、天祥は帝の前で再びその言ったことと未だ尽くさなかったことを挙げると、帝はみな称善し、盧世栄は結局誅に伏した。5月、朝廷は天祥の従軍渡江・興国夀昌平定の功を録し、秩5品に進み吏部郎中に擢けた。
陳天祥――僧格の迫害と弭盗策
- 至元23年(1286年)4月、治書侍御史を除された。6月、湖北湖南行省の銭糧を理算するよう命じられ、天祥は鄂州に至るとすぐに平章の約蘇穆爾(アルスラン)の凶暴不法を弾劾した。時に僧格(サンガ)が国柄を竊み約蘇穆爾は姻党の爪牙羽翼であったため、天祥を罪に誣告し死に致そうとし、繋獄はおよそ400日に及んだ。至元25年(1288年)春正月、赦に遇い釈された。
- 至元28年(1291年)、行台侍御史に擢けられたが、まもなく疾により辞し帰った。至元30年(1293年)、燕南河北道廉訪使を授かった。元貞元年(1295年)、山東東西道廉訪使に改まった。時に盗賊が群起し山東が居多であったため、詔により弭盗の方略を求められ、天祥は「古より盗賊の起こるのはそれぞれ因がある。歳凶饑饉は天時に諉ねるべきで論外とし、他に軍旅が息まず工役が薦興し聚斂が厭くことなく刑法が紊乱するようなことは、みな群盗が起こる因である。その中で保護存養する者がすなわち赦令である。赦は小人の幸い、君子の不幸である。一歳に再赦すれば善人は喑啞する、と前人はすでに言い尽くしている。彼ら彊梁の徒は各々兵仗を執り人を殺し貨を取り、その生を顧みない。有司が力を尽くして擒えても、朝廷は恩を加えて釈す。旦に縲囚を脱すれば暮にすぐ劫を行い、また督勒して有司に限を給い追捕させる。賊はこれに慣れて常となり、既に恩に感ぜず法も畏れず、兇残悖逆の性はすでに頑固に定まり、まことに善化で移せるものではない。ただ厳刑をもってこそ制することができる」と述べ、擬した事条はみな時用に切であった。これにより厳しく有司を督励して捕えた盗賊は甚だ多く、みな杖殺させた。他境に逃げ込んだ者はその向かう先を推測し、捕盗官・弓兵を選んで方略を密かに授け賞罰を示してこれを追捕させ、南は漢江まで2000余里にわたりことごとく擒えられ免れる者はなかった。これにより東方の群盗は屏息した。
- 平陰県の女子劉金蓮は妖術を仮って衆を惑わし、至るところで官が神堂を建てさせ、愚民はみな走って奉事した。天祥は同僚に「この婦は神怪をもって衆を惑わしている。声勢がこの様であり、もし狡獪な人が輔翼すれば漢の張角・晋の孫恩のようになり必ず大害を成すだろう」と言い、捕らえて繋がせ市で杖打った。これより神怪は屏息した。天祥は山東宣慰司官が冗であり罷めるべきだと言い、その使者の貪暴不法を弾劾したが、事は行われず、任満をもって辞去した。
陳天祥――西南征討の批判と晩年
- 大徳3年(1299年)6月、河北河南廉訪使に遷ったが、疾により就任せず、寃抑ある人がしばしば天祥の家に直訴に来たが、天祥は官位にないことを理由にこれを退けた。大徳6年(1302年)、河南行台御史中丞に陞り、西南夷征討事について上章した。「兵には已むを得ずして已まざる場合と、已めるべきなのに已まざる場合とがある。已むを得ざる場合に已めることこそができれば、兵力を永く彊く保ち、已むを得ない場合に用いる備えとできる。これを善く兵を用いる者という。去歳、行省右丞の劉深が遠く八百媳婦国を征したのは、まさに已めるべきなのに已まなかった兵である。彼は荒裔の小邦で遠く雲南の西南数千里にあり、その地は僻陋無用の地、人はみな頑愚無知で、取っても利とならず取らずとも害とならない。劉深は上を欺き下を罔し兵を率いて伐ち、八番を経過するとき縦横自恣にふるまい居民を虐害し、途中で変が生じ所在ことごとく叛いた。劉深は乱を制することができず、逆に乱衆に制せられ、軍中は糧が乏しく人が相食むほどになり、計は窮まり勢いは蹙まり、あわてて退走した。土兵はこれを追撃し大敗させ、劉深は衆を棄てて逃げ、身を辛うじて免れた。軍の十のうち八九を喪い、千余里の地を棄てた。朝廷は再び陝西・河南・江西・湖広の四省の諸軍を発し、劉二巴図をして総管として叛地の回復を図らせた。湖北湖南で大いに丁夫を興し軍糧を運んで播州に交納させ、その正夫と担負する自己の糧食者は通計20余万に上り、まさに農時に当たりこの大役を興したため、憂苦の人が往還数千里の間に何事が起きないことがあろうか。米が尽く到着すれば固より幸いだが、しかし数万の軍がただこの一運の米だけを仰いでよいのか、その後どうするのか」と述べた。
- さらに「西征の敗卒とその将校に問うたところ、西南遠夷の地は重山複嶺・陡澗深林で竹木叢茂しみな長い刺があり、軍が行く径路はその間の狭い所ではわずかに一人一騎しか通れず、上れば天に登るごとく下れば井戸に入るごとくで、賊が険に乗じて我が軍を邀撃すれば、軍が多くても施しがたい。また、その毒霧烟瘴の気はみな人を傷つけられる。群蛮はすでに大軍が至ると知れば、清野して逺遁し要害を阻めば、我が師を老いさせるかもしれず、あるいは前に進めず旁に掠るものもなければ士卒は饑餒し疫病死亡し、戦わずして自ら困る勢いにもなりかねない。よく慮らねばならない。そして倭国・占城・交趾・𤓰跬・緬国征伐以来、近く30年、いまだ尺土一民の内属の益を見たことがなく、費やされた銭財・損なわれた軍数は言うに堪えない。去歳の西征と今回のこの挙も何ら変わらない。前鑑は遠くなく、見誤ることではない。軍は労し民は擾され、いまだ休む期を見ない。ただ劉深一人がその禍の本である。また八番羅国の人はかつて西征の軍に擾害され、生業を捐棄して逃叛し、劉深を怨むこと骨髄に入り、みなその肉を得て分食したいと欲している。人心はみな悪み天意もまた憎んでいる。ただ天意を承け人心に順い、早く劉深の罪を正すべきだ。続けて明詔を下し彼の一方に聖朝数十年の撫養の恩を示し、今後再び遠征の役をしないと諭せば、自ら相続いて帰順の日が来るだろう。官民の上下がみな未だ遠く王師を労せず、区区たる小醜と一旦の勝負を争う必要はないことを知るようにすべきだ。昔、大舜は師を退けて苗民が格り、充国は戦を緩めて羌衆が安んじた例が経伝に載り、万世の法とされている。今の計としては、しばらく近境に駐兵し水路の遠近を通じさせ、あるいは塩引・茶引を用い、あるいは宝鈔を用いて多く米価を増し軍糧を和市すべきである。ただ法令を厳明にし官が信を失わなければ、米船が江を蔽って上り、軍は自ら食に足り民も擾されない。内は根本を安んじ外は辺陲を固め、我らの鎮静をもって彼の猖狂を御し、恩を布いてその心を柔らげ、威を畜えてその力を制し、久しきをもって期し漸次これを服させる。これこそ王者の師、万全の利である」と述べた。
- 「もし業已にこの通りで罷めようにも罷められないというなら、その闗係の大なることをよく慮り、成敗を審詳し算定して行うべきである。彼の溪洞諸蛮は各々種類があり、今相聚まる者はみな烏合の徒であり、必ずや久しく同心して我に敵する理はない。ただ急げば相救い、緩めれば相疑う。計をもってこれを互いに讐怨させ、彼に乗ずべき隙があり我に動かすべき時があるのを待ち、徐ろに諸軍を数道より俱に進ませ、従服する者は仁をもって恩を施し、拒敵する者は武をもって威を示す。恩威相済えば功は易く成る。もし恩を舎てて威に任じ、深の覆轍を蹈めば、他日の患は今日よりも甚だしいものになろう」と結んだが、報われなかった。天祥は結局病を理由に去った。
- 大徳7年(1303年)、集賢大学士に召され中書省事を商議した。8月、河東で地震が特に甚だしかった。詔により弭災の道が問われると、天祥は上章し「陰陽不和・天地不位はみな人事の失宜が致すところ」と極言したが、執政者はその言が切直であることから抑えて上聞しなかった。天祥は召還されて京に至ってから、この時までおよそ1年、いまだ帝に見えて言事することができず、忠を輸す地がないことを常に鬱鬱として不自釈とし、また苟しくも廩禄を糜さぬことを欲しなかった。大徳8年(1304年)正月、疾を理由に去ろうとし、通州に至ると中書は使者を遣わして追い留めたが還らなかった。帝はこれを聞き鈔50貫を賜り、なお伝を給し専官に護送させてその家に至らせた。天祥は闕を望んで拝謝し、賜った鈔を辞して行った。
- 大徳9年(1305年)5月、中書右丞を拝し枢密院事を議し諸衛屯田を提調した。使者を5度遣わされても年老を理由に辞した。大徳11年(1307年)、仁宗が懐州にあったとき使者を遣わし幣帛・上尊酒を賜った。至大4年(1311年)、仁宗が即位し再び使者を遣わして召したが、老疾を理由に辞して立たなかった。延祐3年(1316年)4月、卒した。享年87。累贈推忠正義全徳佐理功臣河南江北等處行中書省平章政事を贈られ、趙国公に追封された。諡は文忠。