元史卷一百六十七 列傳第五十四 王惲
王惲、字は仲謀。衛州汲県の人(?–1304年)。姚樞に招かれて元初の官僚となり、初代監察御史として権貴を弾劾し、裕宗に『承華事略』を進呈するなど諫言で知られた文臣。地方按察使を歴任し、晩年は世祖実録の編纂に携わった。
年表(14件)
- 中統元年1260年姚樞の東平宣撫に詳議官として辟召される
- 中統2年春1261年翰林修撰同知制誥兼国史院編修官に転じる
- 至元5年1268年初代の監察御史を拝し、都水の劉晸を弾劾する
- 至元9年1272年平陽路総管府判官として太平県の冤獄を一度の尋問で解決する
- 至元14年1277年翰林待制を除かれ河南北道提刑按察副使を拝す
- 至元19年春1282年山東東西道提刑按察副使に改まる
- 至元22年春1285年左司郎中に召されるが、聚斂を行う盧世栄への赴任を拒む
- 至元26年1289年福建閩海道提刑按察使となり貪汚の官吏数十人を黜ける
- 至元29年春1292年帝に万言の書を上り、翰林学士嘉議大夫を授かる
- 元貞元年1295年旨を奉じて世祖実録を纂修する
- 大徳元年1297年中奉大夫に進む
- 大徳2年1298年致仕を乞うが許されない
- 大徳5年1301年再び致仕を求め、子に養いを託す
- 大徳8年6月1304年卒す
出自と学問
- 王惲は字を仲謀といい、衛州汲県の人である。曾祖の王経・祖父の王宇は金に仕え敦武校尉であった。父の王天鐸は金の正大初年に律学で首選に入り、戸部主事にまで仕えた。王惲は材幹があり操履端方で、好学善属文をもって東魯の王博文・渤海の王旭と並び称された。史天沢が兵を率いて宋を攻める途中、衛を過ぎたとき王惲を一見し賓礼で遇した。
- 中統元年(1260年)、左丞の姚樞が東平を宣撫すると、王惲は詳議官に辟召された。時に省部が初めて建てられ、諸路に儒吏で理財に能じる者を一人ずつ上げさせた。王惲は選に当たり京師に至り、時政を論じる上書をし、渤海の周正とともに中書省詳定官に擢けられた。中統2年(1261年)春、翰林修撰同知制誥兼国史院編修官に転じ、まもなく中書省左右司都事を兼ね、銭穀を治めた。典礼を議し制度を考えるにあたり長所を尽くし、同僚は服した。
監察御史としての言論
- 至元5年(1268年)、御史台が建てられると初代の監察御史を拝し、知って言わぬことはなく、上げた論列は凡そ150余章に及んだ。時に都水の劉晸は権勢と結んで用いる者を専らにし、没収官糧40余万石を隠していた。王惲はこれを弾劾し、その姦利を暴いたため、権貴は側目した。また、劉晸が太廟を監修し功を畢えて特に転官・錫賞されたが、わずか数年で梁柱がすでに摧朽していることは不敬に涉ると論じ、法により論罪すべきだと言った。劉晸は結局憂いのうちに卒した。
- 任期を終えると、陳天祐・雷膺が朝廷に交々薦めた。至元9年(1272年)、承直郎平陽路総管府判官を授かった。初め、絳の太平県で陳氏という民がその兄を殺し賄賂を行って獄を緩め、蔓引され逮繋された者が300余人に及び5年経っても決着しなかった。朝廷は王惲に鞫問を委ねると、一度の尋問で真実を得て、逮繋された者をことごとく釈放した。時に絳は久しく旱っていたが、一夕にして大雨が降った。
- 至元13年(1276年)、河南で儒人試験を奉命した。至元14年(1277年)、翰林待制を除かれ、朝列大夫河南北道提刑按察副使を拝し、まもなく制度が改まると燕南河北道按部諸郡に遷り、贓吏を多く罷黜した。至元18年(1281年)、中議大夫行御史台治書侍御史を拝したが赴任しなかった。
裕宗への進言と地方官歴任
- 裕宗が東宮にあると、王惲は『承華事略』を進呈し、その目を「広孝立愛・端本進学・択術謹習・聴政達聡・撫軍崇儒・親賢去邪・納誨幾諫・従諫推恩・尚倹戒逸・知賢審官」とし、全20篇からなった。裕宗はこれを覧て、漢の成帝が馳道を絶えなかったことや、唐の粛宗が絳紗の服を朱明の服に改めたことに至り、心から喜び「我がもしこの礼に遇えば、まさにこのようにするだろう」と言った。また邢峙が斉の太子に邪蒿を食べることを止めさせたくだりに至ると、侍臣を顧みて「一菜の名がにわかに人を邪にさせられようか」と言った。詹事丞の孔九思は傍らから「正臣が微を防ぐのは理の当然です」と対えた。太子はその説を善しとし酒を賜って慰喩し、諸皇孫に伝え観させ、その書の弘益が居多であることを称えた。
- 至元19年(1282年)春、山東東西道提刑按察副使に改まり、在官一年で疾により衛に還った。至元22年(1285年)春、左司郎中として召された。時に右丞の盧世栄が聚斂をもって進用され、しばしば促されたが赴任しなかった。理由を問われると、王惲は「力小さくして任大きく、衆を剥して己を利する者で全うできた者は聞いたことがない。これを遠ざけてもなお溺れることを恐れるのに、況んや近づけようか」と言った。まもなく果たして盧世栄は敗れ、衆はその識見に服した。
- 至元26年(1289年)、少中大夫福建閩海道提刑按察使を授かり、貪汚不法な官吏数十人を黜け、寃滞した繋囚を査察し決して遣った。戍兵が民家に寓することを禁じ営屋を創って居らせた。常々「治の本は人を得ることにある」と言い、朝廷に「福建の管轄郡県は50余りで、連山が海に距し実に辺徼の重地でありながら民情は軽詭である。平定以来、官吏が貪残で山寇がしばしば嘯聚し、愚民がそれに蟻附して村落を剽掠し、官兵が討伐に赴けばこれをさらに蹂躙する。これはまことに朝廷の一視同仁の意ではない。今、一々守令を選任することはできなくても、行省官僚に平章・左丞の欠員があるなら、清望が著しく帝の心に選ばれた者を特選すべきだ。文は黎庶を撫綏するに足り、武は外侮を折衝するに足る者が治めれば、鎮静を期せる」と進言した。
- 時に行省が劇賊の鍾明亮を討って功がなかったため、王惲は再び利害を条陳し「福建の帰附の民戸はおよそ百万あり、黄華の変で十のうち四五を失ったが、今、劇賊の猖獗ぶりは黄華よりも甚だしい。尋常の草竊として視てはならない。況んやその地は溪山の険があり、東を撃てば西へ走り出没測り難く、招けば降らず攻めれば克てない。精兵を選び号令を明示し専ら重臣に節制させて計をもって討つべきだ。彼を勢窮力竭させてから、初めて取ることができる」と述べた。
晩年と著述
- 至元28年(1291年)、京師に召された。至元29年(1292年)春、栁林行宮で帝に見え、万言の書を上って時政を極言し、翰林学士嘉議大夫を授かった。成宗の即位に際し『守成事鑑』15篇を献じ、その論はことごとく経旨に基づいていた。元貞元年(1295年)、通議大夫知制誥同修国史に加えられ、旨を奉じて世祖実録を纂修し、『聖訓』6巻を集めて上呈した。大徳元年(1297年)、中奉大夫に進んだ。大徳2年(1298年)、鈔万貫を賜り致仕を乞うたが許されなかった。
- 大徳5年(1301年)、再び上章して致仕を求め、子の王公孺を衛州推官に授けて養いに便させ、なお孫の王笴を秘書郎に官した。大徳8年(1304年)6月、卒した。翰林学士承旨資善大夫を贈られ、太原郡公に追封され、諡は文定。著述に『相鑑』50巻・『汲郡志』15巻・『承華事略』・『中堂事記』・『烏台筆補』・『玉堂嘉話』および雑著詩文があり、合わせて100巻となる。