安南使節としての活躍
- 至元6年(1269年)、安南が入貢の期を守らなかったため、張庭珍は朝列大夫安南国達嚕噶齊とされ金符を佩び、土畨・大理の諸蛮を経て安南に至った。世子の光昞が立って詔を受けると、張庭珍は「皇帝は汝の土地を郡県とせず、汝が藩と称すことを聞き届け、使者を遣わし旨を諭したのは徳の厚きゆえだ。それなのに王は宋と唇歯の関係を保ち、みだりに尊大に振る舞っている。今、百万の師が襄陽を囲み陥落は旦夕に迫っており、席巻して長江を渡れば宋は滅ぶ。王は何を恃みとするのか。雲南の兵は二月足らずで汝の境に至るし、汝の宗祀を覆すのも難しいことではない。よく謀るべきだ」と責め、光昞は恐惶して拝を下し詔を受けた。
- その後、光昞は張庭珍に「聖天子は我を憐れんでくださるのに、使者は無礼な者が多い。汝の官は朝列であり、我は王だ。互いに対等な礼で接するのは古にもあることか」と語った。張庭珍は「ある。王人は微小でも諸侯の上に序される」と答えた。光昞は「汝は益州を過ぎて雲南王に会うとき、拝するか」と問うた。張庭珍は「雲南王は天子の子である。汝は蛮夷の小邦で、特に王号を仮に賜っただけで、どうして雲南王に比べられよう。まして天子は我を安南の長として、位を汝の上に置いている」と答えた。光昞は「では大国と称しながら、なぜ我が犀・象を索めるのか」と言った。張庭珍は「方物を貢献するのは藩臣の職務だ」と答え、光昞は言葉に窮して慚憤し、衛兵に刃を露にして環立させ張庭珍を恐れさせようとしたが、張庭珍は佩いていた弓刀を解いて室中に横たわり「汝はどうしたいのか、聴こう」と言うと、光昞と群下はみな服した。
- 翌年、使者が張庭珍に随って入貢した。張庭珍が帝に謁見し、光昞への対答を報告すると、帝は大いに悦び、翰林承旨の王磐にこれを記させた。張庭珍は襄陽行省郎中を授けられ、阿爾哈雅とともに数騎で襄陽南門に至り、宋将の呂文煥に「我が師の攻めるところ取れぬものはない。汝の孤城は道が絶え外に一兵の援もないのに、死守して空名を求めようとするのは、郡の人々にとってどうか。早く図るべきだ」と語った。文煥の帳前の将である田世英・曹彪はその総管の武栄を捕らえて来降し、文煥はますます孤立した。翌日、黒楊都統が納款を議しに来て、還らせようとしたが、張庭珍は「彼が来たのは計略で我らを窺うためかもしれず、必ず降ると決まったわけではない。この人は呂氏の腹心であり、留めて彼の謀を伐つに越したことはない」と言い、元帥阿珠もこれに同意して留めて遣わさなかった。翌日、文煥は城を挙げて降伏した。功により中順大夫に進み、遥授知帰徳府・行枢密院経歴を授かった。
地方官としての治績と開封の水害対応
- 諸軍が南渡すると再び行省郎中となり、まもなく金虎符を授かり襄陽総管兼府尹となり、郢州・復州の二州の達嚕噶齊に改まった。宋が平定されると平江路達嚕噶齊に遷り、同知浙東宣慰使司事に改まった。
- 未だ赴任せぬうちに大司農卿を拝したが、父母の喪に連続して服し、起復して南京路総管兼開封府尹となった。開封には控鶴軍士十余人が大宅を借りて群居し、街を縦横していた。張庭珍は着任するとすぐに彼らが必ず盗を働くと察し、急ぎ捕らえたところ、寶玩器服や子女が室に満ち、その党をことごとく捜索して皆殺した。民はこれを神のように敬った。
- 黄河が決壊し太康を灌ぎ千里が漂溺した。張庭珍は商人・漁夫の船と縛った木の筏を集め、糗糧を載せて四方に救助に赴かせ、多くの人命を救った。水が善利門に入ると、張庭珍は自ら人夫を督励して薪土で防いだが止められず、そこで城を崩して堰とした。水が引くと直ちに民を発して外防を百三十里増築させ、人々は水患から免れた。まもなく官途にて没した。
- 張庭珍は性、清慎であった。丞相の巴延はかつて人に「諸将で江を渡った者に貪欲でない者はなく、ただ我と国宝(張庭珍の字)だけが最後まで自らを守った」と語った。聞く者はこれを知言とした。弟の庭瑞。
張庭瑞――蜀の防衛戦
- 張庭瑞は字を天表といい、幼くして功業をもって自ら任じ、兵法・地志・星暦・卜筮に至るまで究めぬものはなかった。宿衛として憲宗の蜀征伐に従い先鋒となった。中統2年(1261年)、元帥府参議を授かり、青居に留戍し、諸軍とともに開州・達州を攻めた。
- 張庭瑞は兵を率いて虎嘯山に城を築き、二州の路を扼した。宋将の夏貴が数万の師をもってこれを囲み、城は砲弾を受けて穿たれた。柵を築いて守ったが柵が壊れると、大樹に依って牛馬の皮を張り砲弾を防いだ。夏貴は城中の人々が澗で水を飲むのを知り水源を絶ったため、張庭瑞は人畜の溲を沸かして煮て、土中に瀉して臭気を洩らした。人は日に数合を飲み、唇はみな瘡裂した。堅く守ること月を越え、援兵も敢えて進めなかった。
- 張庭瑞は宋兵がやや懈むのを見計らい、兵を三分して夜に夏貴の営を襲撃し、宋兵は驚き潰えた。都統の欒俊・雍貴・胡世雄ら五人を殺し、千余級を斬った。張庭瑞も数箇所を負傷したが、功により奉議大夫を授かり、高唐州を知り、濮州尹に改まり、陝西四川道按察副使に遷った。政は猛に過ぎ上官に便ならず、罪に陥れられ四川屯田経略副使に徙された。東西川行枢密院が兵を発して重慶を囲むと、朝廷は張庭瑞が軍事に練達していることを知り成都総管に換え虎符を佩びさせた。舟楫・兵仗・糧儲はすべて張庭瑞に頼って弁じられた。
張庭瑞――蛮夷統治の手腕
- 蜀が平定されると諸蛮夷部宣慰使に陞り、蛮夷の心を大いに得た。碉門の羌は婦人・老幼と市で価を争って人を殺した。碉門魚通司はその人を繋いだが、羌の酋長は怒って縄橋を断ち劫奪を謀った。魚通司が急を告げると、左丞の汪惟正が計を問うた。張庭瑞は「羌の俗は暴悍で闘殺を勇とする。今、一人が蜂の毒のようであるだけなのに、門墻の寇として扱うべきではない。使いを遣わして禍福を諭せば、彼らは悟って自ら回るだろう」と言った。惟正は「使者は君を措いて他にない」と言い、張庭瑞は数騎で羌の境に赴いた。
- 羌は兵を陳ねて待っていたが、張庭瑞は進み出て「人を殺せば死をもって償う、羌と中国の法は同じである。有司が人を繋いだのは証人とするためであり、汝がすぐに無礼を働けば、行省が朝廷に聞こえて近郡の兵を召し、汝の巣穴を空にするだろう」と語った。酋長は槍弩を棄て羅拝して「私は先ごろ、生きた羊の肩胛を裂いて占い、その肉の文理はどうなるかで吉を見た。その兆に『白馬将軍が来れば兵を労せずして事は収まる』とあった。今、公の馬はまさに白い。どうして命に従わずにいられよう」と言った。張庭瑞は殺人者だけを論じて処罰し、残りはみな縦し遣った。改めて約束し、今後は碉門を境として交市し、互いに越境しないこととした。
- 官は蜀茶の値を上げて羌人に売り、患いとなっていた。張庭瑞は引法を改め、一引ごとに二緍を納めさせ文券を付し、民が自ら羌と市することを聴した。羌・蜀ともにこれを便とした。それ以前、糧を楊山から江を溯って運んでいたが、しばしば覆没した。張庭瑞は初めて屯田を立て、人々は患いを免れた。都掌蛮の叛蛮は飛鎗を得意とし、松枝を連ねて牌とし自らを蔽ったが、行省が張庭瑞に討伐を命じると、張庭瑞の射た矢はその牌を貫き半ば矢柄まで出て、蛮は「この弓矢の力は何ものか」と驚き、即座に服従を請うた。ただ酋長の蘭徳酉ら十余人だけを斬り、残りの民は招いて復帰させた。
- 敘州等處蛮夷部宣撫使を授かり、潭州路総管に改まった。時に湖広省臣が民を剥いで功とするのを見て、張庭瑞は拒めぬことを知り辞して関中に帰った。三年後、成都を思い、漢中から家奴を分けて居らせた。病により卒した。張庭瑞が初めて青居に屯したとき、その地に橘が多く、時に中州では蜀の薬を得がたく価が常に倍していた。張庭瑞は暇な兵卒に日々橘皮を若干升集めさせ貯えたが、人々はその意図を知らなかった。商人で財を失い帰れない者がいると、橘皮一石を与えて金を得させ助けた。人々はみな感謝した。
- 家に愛妾があり、ある日、老人が彼女と語るのを見た。それは彼女の父であった。妾がこれを告げると張庭瑞は召して見たところ、容貌がよく似ていた。老人に「汝の娘を連れて帰りたいか」と問うと、その人は「幸いなことです。ただ左右に侍る身であり、あえて連れ帰りを求めません」と答えた。張庭瑞は「汝の娘が我が家にいれば群婢に過ぎぬが、帰嫁すれば良人となれる」と言い、すべての妝奩・文券を娘に与えて父に返した。当時の人々はこれを難しいこととした。
出自と初期の官歴
- 張惠は字を廷傑といい、成都新繁の人である。宋の尚書右僕射である商英の子孫であり、その先祖は清河に徙り、後に蜀に徙った。丙申の年、張惠は14歳で兵が蜀に入り捕虜となり杭愛(カラコルム)に至った。数年を経て諸国の言語に通じ、丞相の茂蘇蘇が愛でて推挙し、世祖の藩邸に侍り、謹敏をもって称され、名をウルグナイルトと賜った。
- 世祖が即位すると燕京宣慰副使を授かり、政を寛簡に行い、分数銭の免除を奏し、硝碱局を罷めた。まもなく侍中に遷った。至元元年(1264年)冬、参知政事に遷り山東に行省した。銀をもって俘虜となった囚人300余家を贖い、民とした。帰れぬ者は僧とし寺を建てて居らせた。李璮の乱で山東の民は軍士に多く擄掠されたが、張惠が至ると軍中を大いに調べて彼らを解放した。また、良吏を選び冗官を去らせ、民の困窮を蘇らせることを奏した。
宋征討における実務と晩年
- 制国用司副使に遷ったが、まもなく制国用司を尚書省に改め参知政事を拝し、中書左丞に遷り右丞に進んだ。巴延が師を率いて宋を伐つと、至元12年(1275年)夏、詔により張惠がその饋餉を主どり、江淮の銭穀はすべてこれを領した。同年春、宋が降ると、巴延は張惠と参知政事の阿嘍罕らに城に入って府庫・版籍を按閲させ、太廟・景霊宮の礼楽器物・冊宝・郊天儀仗を収め、江南の民で工匠に籍されたおよそ30万戸のうち、張惠は技芸のある者を選び10余万戸のみとし、残りはみな奏して民に戻した。
- 巴延は宋主を北へ帰す際、張惠に居守を命じたが、張惠は命を待たず府庫の封鑰を啓いた。巴延がこれを奏聞すると、詔により左丞相の阿珠・平章政事の安塔哈が詰問し、京師に召還された。至元20年(1283年)、栄禄大夫平章政事を拝し揚州に行省した。至元22年(1285年)、入朝して復命し、平章政事として杭州に行省したが、無錫に至って卒した。享年62。
- 張惠は至るところで能声があったが、老いてからはやや浮沈をもって譏られた。子は遵誨。