元史卷一百六十七 列傳第五十四 張立道

張立道、字は顯卿。先祖は陳留の人で後に大名に移った(?–1298年)。世祖の側近として雲南に赴き、雲南王毒殺未遂事件で忠節を示し、勧農・治水・孔子廟建立など雲南の治績に努め、安南に三度使いして朝貢関係の回復に功があった元初の能吏。

年表(9件)
  • 至元4年1267年西夏に使いし、雲南王府文學に任じられる
  • 至元8年1271年再び安南に使いし建国号を宣布する
  • 至元10年1273年大理等處巡行勧農使となり金符を佩ぶ
  • 至元15年1278年中慶路総管となり、雲南に初めて孔子廟を建て学舎を置く
  • 至元17年1280年臨安広西道宣撫使兼管軍招討使として金歯甸七十城を平定する
  • 至元22年1285年臨安広西道軍民宣撫使に遷り両江の諸蛮25万余戸を戸籍に入れる
  • 至元27年1290年安南の陳日燇を説得し、歳貢の礼を旧に復させる
  • 至元28年1291年両浙を按行し、四川南道宣慰使を経て陝西漢中道粛政廉訪使に遷る
  • 大徳2年1298年雲南行省参政となるが、就任一月余りで官途にて卒す

出自と雲南入り

  • 張立道は字を顯卿といい、その先祖は陳留の人で、後に大名に移った。父の張善は金で進士となった。
  • 壬辰の年(1232年)、モンゴル軍が河南を下したとき、張善は策をもって皇太弟(世祖)に近づき、筆吏として仕えた。張立道は17歳で父の任により宿衛に加わり、世祖の即位後は北征に従い、常に側を離れなかった。
  • 至元4年(1267年)、張立道は西夏に使いし、駐屯軍の兵糧を差配して能吏との評を得た。皇子の和克齊(フゲチ)が雲南王に封ぜられて赴任すると、張立道は王府文學に任じられ、王に農業奨励を説き、大理等處勧農官・屯田事を兼ねさせられ、銀符を佩びた。また侍郎の甯端甫とともに安南に使いし、歳貢の礼を定めた。

雲南王毒殺未遂事件

  • 雲南三十七部都元帥の保赫鼎(ボヘディン)は久しく権力を専らにし、王位を窃取しようとしていた。和克齊が王として来ることを忌み、宴を設けて酒に毒を盛り、王府の官にもこれを漏らさぬよう賄賂を贈った。
  • 張立道はこれを聞きつけ急いで参上しようとしたが、門番に阻まれた。王が声を聞いて呼び入れ、王のために事情を告げると、王は自らの手で口中の肉を探らせたところ、既に腐っていた。その夕、王は薨じ、保赫鼎は王座を奪った。
  • 保赫鼎は王妃に王印を出させようとした。張立道は密かに義士13人を結び、共に討伐を謀り、腕を刺した血に金屑を和して飲み、一人を京師へ走らせて変事を告げさせた。事が漏れると、保赫鼎は張立道を囚え殺そうとしたが、人匠提舉の張忠(張立道の族兄、燕の人)が壮士を率いて夜に牢を破り救い出し、共に土畨(吐蕃)の境まで逃れ、皇帝の遣わした御史大夫の博爾歡・王傅の圖と、告変の使者に出会い、両者とともに帰還した。
  • 保赫鼎と、賄賂を受けた王府官はことごとく処刑された。詔により張立道らが入朝し、王が薨じたときの様子を問われると、帝は張立道の言葉を聞いて涙を数行流し、久しく歔欷した後、「汝らは我が家事のため大変苦労した。今、朕に仕えたいか、太子に仕えたいか、安西王に仕えたいか、汝らの望むままにせよ」と言った。張立道らは陛下にお仕えしたいと願い出た。帝は張立道に金50両を賜り、その忠を旌した。張忠らにもそれぞれ官が授けられた。

雲南の治績と昆明池の開発

  • 至元8年(1271年)、再び安南に使いし、建国号を宣布した。張立道は雲南から黒水を経て、雲南に沿って安南に赴くよう詔され、歳貢の礼が定まった。
  • 至元10年(1273年)3月、大司農事を領する中書省は、張立道が雲南に熟達していることから、大理等處巡行勧農使に任じ、金符を佩びさせた。
  • 雲南の昆明池は碧雞山・金馬山の間にあり、周囲500余里に及んだ。夏の大雨のたびに城郭が水に冒された。張立道は水源を探り、丁夫2千人を役して治めさせ、水を洩らして万余頃の土地を得て、みな良田とした。爨𤏡(さんぺい)の人々は養蚕を知りながらその方法を知らなかったが、張立道が初めて教え、飼育・収利は旧の10倍となり、雲南の人はこれにより富み栄えた。羅羅諸山蛮はこれを慕い、相次いで来降し、その地はみな郡県となった。
  • 至元15年(1278年)、中慶路総管に任じられ虎符を佩びた。それ以前、雲南では孔子を尊び先師王逸少を祀ることを知らなかったが、張立道は初めて孔子廟を建て学舎を置き、士人の子弟に学ぶことを勧め、蜀の賢士を選んで弟子の師として迎えた。毎年、諸生を率いて釈菜の礼を行わせ、人々は礼譲を習い風俗もようやく変わった。行省平章の賽音諤徳齊が朝に上表し、詔により進官してこれを褒めた。

安南への使節と説得

  • 至元17年(1280年)、張立道は帝に力請し、雲南王子の額森特穆爾に王爵を襲がせることを願い出て、帝はこれに従い、張立道を臨安広西道宣撫使兼管軍招討使とし、なお虎符を佩びさせた。陛辞の際、弓矢・衣服・鞍馬を賜った。赴任すると、禾泥路の大首領必思が反し諸蛮夷を扇動したため、直ちに兵を発してこれを討ち、城邑を抜き、鼓を打って進み、金歯甸七十城を徇え、麻甸を越えて可蒲まで至り、すべて平定した。馴象・金鳳などの異物を献じる者があり、すべてこれを朝廷に献上した。
  • 至元22年(1285年)、両江の儂士貴・岑従毅・李維屏の部下25万余戸を戸籍に入れ、その籍を有司に帰し、臨安広西道軍民宣撫使に遷った。建水路に廟学を新たに創り、清白の訓を役所に書いて貪墨を戒め、風化が大いに行われた。入朝したとき、権臣が政を執っていたため退いて散地に居り、当世の急務に切実な十二策を条陳し、帝はこれを嘉納した。
  • 至元27年(1290年)、北京で地震が起き人民が震え驚いたため、張立道を本路総管に任じたが、未だ赴任せぬうちに安南世子の陳日燇が臣の厳仲羅・陳子良らを京師に遣わし、王位襲爵を告げさせた。それより前、安南国主陳日烜は再三召しても来朝せず、族父の遺愛を遣わして入貢させるのみであった。朝廷はこれをもって遺愛を安南王に封じたが、遺愛が帰国すると陳日烜はこれを陰謀で害した。使者を遣わし罪を問うたが、日烜は使者の命を拒み、朝廷は将を遣わして討伐させたが失敗して帰った。帝は怒って再び兵を発しようとしたが、丞相の諤勒哲・平章の博果宻は「蛮夷の小邦のために中国を疲弊させるまでもない。張立道はかつて二度安南に使いして功があり、今また往かせれば従わぬはずはない」と言った。
  • 帝は張立道を香殿に召し「小国が不遜であるので、汝を遣わして朕の意を諭させる。よく心を尽くせ」と諭した。張立道は「君父の命は、水火を踏むも辞せません。ただ臣は愚かで一人では任に耐えぬかと恐れます。重臣一人を共に賜り、臣がその副となりたく存じます」と対えた。帝は「卿は朕の腹心である。臣を一人卿の上に置けば必ず卿の謀を敗る」と言い、礼部尚書を授け三珠虎符を佩びさせ、衣段・金鞍・弓矢を賜って行かせた。
  • 安南の境に至り、出迎えの者に「汝の世子に、郊外に出て迎えるべしと伝えよ」と告げると、陳日燇はその属を率いて香を焚き道の左に伏し拝謁し、府に着くと日燇は拝跪して詔を聞いた。張立道は上命を伝え、その罪を数えて書に著してこれを諭した。日燇は「近三代、公を辱め、公は大国の卿、小国の師である。どう我らを教えるか」と言った。

陳日燇への説得と朝貢の回復

  • 張立道は「昔、鎮南王が詞を奉じて討伐したが、汝は勝ったわけではない。案内人を用いず、衆を率いて深く入り一人も見ず、逡巡して還る途中、まだ険を出ぬうちに風雨が急に至り、弓矢はことごとく壊れ、衆は戦わずして自ら潰えたのだ。天子もすでにこれを知っている。汝が恃むのは山海の険と瘴癘の悪のみだ。だが雲南と嶺南の人は習俗が同じで技力も等しく、これを発してもし用いれば、さらに北方の精鋭を続けて送れば、汝はなお抗し得るか。汝が戦って不利となれば海中の島へ逃げ入るしかないが、島夷が乗じて必ず来寇するだろう。汝は食が少なく支えられず、必ず彼に屈するだろう。汝が彼の臣となるのと、天子の臣となるのとどちらがよいか。今、海上の諸夷が汝に貢ぐのも、我が大国を畏れてのことだ。聖天子は汝に厚く徳を施しているのに、前年の師は上意ではなく辺将の讒言によるものだった。汝はそれを悟らず、一介の使者すら遣わして謝罪・請命せず、兵を興して抗拒し我が使者を追い返し大国の師を怒らせた。今、禍が迫っている。世子はよく考えるべきだ」と言った。
  • 日燇は拝して泣きながら「公の言葉はまことに正しい。私のために計った者たちはこれを知らず、先日の戦いは死中に生を求めただけであり、恐れを知らぬわけではない。天子が公を遣わされたのは、必ず私を活かすためだ。北面して再拝し、死すとも天子の徳を忘れないと誓う」と言い、張立道を迎え入れ、奇宝を出して賄おうとしたが、張立道は一切受けず、ただ日燇に入朝を求めた。日燇は「貪生畏死は人の常情。もし詔により死を免じられるなら、臣はどうして辞そう」と言い、まず臣下の阮代之何・惟巖らを張立道に随わせて上表謝罪させ、歳貢の礼を旧に復し、朝見を願う意も伝えた。しかし廷臣の中に張立道の功を害する者があり、まず朝見してから赦すべきだと言ったため、日燇は懼れて結局至らず、議者はこれを惜しんだ。

晩年と評価

  • 至元28年(1291年)、張立道は使者として両浙を按行し、その後四川南道宣慰使となり、陝西漢中道粛政廉訪使に遷った。至元30年(1293年)、皇曾孫の蘇克繖が梁王に封じられ雲南に出鎮すると、大徳2年(1298年)、朝廷は旧臣の中から梁王を輔佐できる者を求め、張立道は陝西行台侍御史から雲南行省参政に拝された。就任してわずか一月余りで官途にて没した。
  • 張立道は安南に二度使いし、雲南に官として在ること最も久しく、士人の心を大いに得た。そのために善闡城の西に祠廟が立てられた。著書には『効古集』『平蜀総論』『安南録』『雲南風土記』六巻、『詔通説』若干巻がある。子は雲南行省左右司郎中となった。